【厳選】 怪談・都市伝説・怖い話まとめ

ネットで見つけた、都市伝説・怪談・ほんとにあった怖い話・世にも奇妙な物語・心霊系・不思議系・電波系・オカルト系のお話シリーズです♪

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【柳田國男】山の人生:10~11【青空文庫・ゆっくり朗読】

   

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一〇 小児の言によって幽界を知らんとせしこと

運強くして神隠しから戻ってきた児童は、しばらくは気抜けのていで、たいていはまずぐっすりと寝てしまう。それから起きて食い物を求める。何を問うても返事が鈍く知らぬ覚えないと答える者が多い。それをまた意味ありげに解釈して、たわいもない切れ切れの語から、神秘世界の消息をえようとするのが、久しい間のわが民族の慣習であった。しかも物々しい評判のみが永く伝わって、本人はと見ると平凡以下のつまらぬ男となってきているのが多く、天狗てんぐのカゲマなどといって人がこれを馬鹿にした。
この連中の見聞談は、若干の古書の中に散見している。鋭い眼をした大きな人が来いといったからついて往った。どこだか知らぬ高い山の上から、海が見えた里が見えたの類の、漠然ばくぜんたる話ばかり多い。ところがこれとは正反対にごくわずかな例外として、むやみに詳しく見てきた世界を語る者がある。江戸で有名な近世の記録は、『神童寅吉とらきち物語』、神界にあって高山嘉津間たかやまかつまと呼ばれた少年の話である。これ以外にも平田派の神道家が、最も敬虔けいけんなる態度をもって筆記した神隠しの談がいくつかあるが記録の精確なるために、いよいよ談話の不精確なことがよく分る。各地各時代の神隠しの少年が、見てきたと説くところには、何一つとして一致した点がない。つまりはただその少年の知識経験と、貧しい想像力との範囲より、少しでも外へは出ていなかったのである。
故に神道があまり幽冥道ゆうめいどうを説かぬ時代には、見てきた世界は仏法の浄土や地獄であった。『続鉱石集ぞくこうせきしゅう』の下の巻に出ている「阿波国不朽ふきゅう物語」などはその例で、その他にも越中の立山、外南部そとなんぶ宇曾利山うそりざんで、地獄を見たという類の物語も、正直な人が見たと主張するものは、すべてみなこの系統の話である。

黒甜瑣語こくてんさご』第一編の巻三にいわく、「世の物語に天狗のカゲマとふことありて、ここかしこに勾引こういんさるゝあり。或は妙義山にて行かれてやっことなり、或は讃岐さぬきの杉本坊の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元禄の頃仙北稲沢いなさわ村の盲人が伝へし『不思議物語』にも多く見え、下賤げせんの者には別して拘引さるゝ者多し。近くは石井某が下男は、四五度もさそはれけり。はじめ出奔しゅっぽんせしと思ひしに、其者そのものの諸器褞袍おんぽうも残りあれば、それとも言はれずと沙汰さたせしが、一月ひとつきばかりありて立帰れり。津軽つがるを残らず一見して、くわしきこと言ふばかり無し。其後一年ほど過ぎて此男このおとこ部屋へや何か騒がしく、ゆるして下されと叫ぶ。人々出て見しに早くも影無し。此度このたびも半月ほど過ぎて越後えちごより帰りしが、山の上にてかの国の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辞を左右にたくして言はず。委曲いきょくを告ぐれば身の上にもかかわるべしとのいましめを聞きしとなり。四五年を経て或人に従ひ江戸に登りしに、又道中にて行方ゆくえ無くなれり。此度は半年ほどして、大阪よりくだれり」と云う。
右の話の始めにある『不思議物語』という本は、この他にもたくさんの珍しい記事を載せてあるらしい。二百数十年前の盲人の談話ときいて、ことに一度見たいと思っている。江戸の人の神に隠された話は、また新井白石も説いている。『白石先生手簡』、年月不明、小瀬復菴おぜふくあんてた一通には、次のごとく記してある。
「正月七日の夜、某旧識きゅうしきの人の奴僕ぬぼく一人、たちまちに所在を失ひそうろう。二月二日には、御直参ごじきさんの人にて文筆とも当時の英材、某多年の旧識、これも所在を失し、二十八日に帰られ候。其事の始末は、鬼の為に誘はれ、近く候山々経歴し見候みそうろう此外このほか二三人失せし者をもうけたまわり候へども、それらは某見候者にも無く候。たしかに目撃候あいだ如此かくのごときの事また候へば云々うんぬん(末の方は誤写があるらしい)

『神童寅吉物語』は舞台が江戸であっただけに、出た当時からすでに大評判となり、少なからず近世のいわゆる幽界研究を刺戟しげきした。今でも別様の意味において貴重なる記録である。知っている人も多いと思うが、大正十四年の四月に、周防宮市すおうみやいち天行居てんこうきょから刊行した『幽冥界ゆうめいかい研究資料』と題する一書は、この類の珍本のいくつかを合わせて覆刻ふっこくしている。『嘉津間答問かつまとうもん』四巻附録一巻は、すなわち前にいう寅吉の談話筆記で、平田翁の手を経て世におおやけにせられたものであるが別にそれ以外に『幸安仙界物語こうあんせんかいものがたり』三巻、紀州和歌山の或る浄土寺じょうどでらの小僧が、白髪の老翁に導かれてしばしば名山に往来したという話であり、『仙界真語せんかいしんご』一巻は、尾州の藩医柳田泰治の門人沢井才一郎という者が、遠州秋葉山に入って神になったという一条で、いずれも十七歳の青年の異常なる実験を、最も誠実に記述したものである。高山嘉津間の方は、七歳の時から上野うえのの山下で薬を売る老人につれられ、時々常陸ひたちの或る山に往来していたと語っているが実際にいなくなったのは十四のとしの五月からで、十月とつきほどして還ってきていとも饒舌じょうぜつに霊界の事情を語っていた。あまねく諸州を飛行したそうだが、本居ほんきょは常陸の岩間山の頂上にあった。紛れもなく天狗山人の社会で方式にも教理にも修験道しゅげんどうの香気が強かったが、あの時代の学者たちは一種の習合をもって自派の神道の闡明せんめいにこれを利用した。それでも不用意なる少年の語の中には、あまりなる口から出まかせがあって、指摘し得べき前後の矛盾さえ多かったのだが、それは記憶の誤りだろう隠すのだろう、或いは何か凡慮に及ばぬ仔細しさいがあるのだろうと、ことごとく善意に解しようとした跡がある。非常なる骨折ほねおりであった。これに比べると紀州の幸安の神隠しは、三十年余も後の事であるが、この期間の日本の学問の進歩は、はや著しくその話の内容に反映している。幸安はまず和歌山近くの花山というに登り、それから九州某地の赤山というところに往ったと語ったが、赤山の住侶じゅうりょはいずれも仙人せんにんで、おのおの『雲笈七籖うんきゅうしちせん』にでもあるような高尚な漢名を持っていた。天狗などは身分の低いものだと大いにこれを軽蔑けいべつしている。また支那にも飛べば北亜細亜アジアの山にも往ったとあって、その叙説の不精確さはまさに幕末ごろの外国地理の知識であった。よくもこんな話が信じられたと、今の人ならば驚くのが当然だが、道教の神秘も日本の固有信仰がこれを支配し得るかのごとく、曲解し得るだけ曲解するのが、言わばあの時代の学風であったので、すなわちたくさんの夢語ゆめがたりも、やはり平田翁一派の研究以外へは一足だって踏出してはいないのである。
名古屋の秋葉大権現あきばだいごんげんの神異に至っては、話が更に一段と単純になっている。これは前にいう紀州の事件よりも、また十五年も後のことであるが、これに参加した人たちが学問に深入ふかいりしなかった故に、古風な民間の信仰の清らさをとどめている。すなわち神隠しの青年は口が喋々ちょうちょう奇瑞きずいを説かなかったかわりに、我々の説明しえないいろいろの不思議が現われ、それを見たほどの者は一人として疑い怪しむことができなかった。そうして多くの信徒の興奮と感激との間に、当の本人は霊魂のみを大神おおかみに召されて、若いむくろを留めて去ったのである。およそ近代の宗教現象の記録として、これほど至純なる資料はじつは多くない。したしくこの出来事を見聞した者の感を深め信心を新たにしたことも、誠に当然の結果のように思われる。ただ我々の意外とすることは、こういう珍しいいろいろの実験をならべてみて、一方が真実なら他方は誤りでなければならぬほどの不一致には心づかず、幽界の玄妙なる、なんのあらざる事あらんやと、一切の矛盾を人智不測の外に置こうとした、後世の学徒の態度であった。もし盲信でなければ、これは恐らく同種の偽物にせものに対する寛容であって、やがては今日のごとき鬼術横行の原因をなしたものとも言いえられる。
江戸の高山嘉津間、和歌山の島田幸安等の行末ゆくすえはどうであったか。今なら尋ねて見たらまだ消息が知れるかもしれぬ。もし彼らの行者生活が長く続いていたとすれば、これらの覚書おぼえがき類は時の進むとともに、幾たびかその価値を変化しているはずである。少なくとも口で我々にあんなことを説いて聞かせても、もう今日では耳を傾ける者はあるまい。故に書物になって残っているというだけで、特段にこれを尊重すべき理由はない道理である。

一一 仙人出現の理由を研究すべきこと

「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像するごとくはっきりしたものでない。自分が考えてもなおあやふやな話でも、なんどとなくこれを人に語り、かつ聴く者がつねに少しもこれを疑わなかったなら、ついには実験と同じだけの強い印象になって、のちにはかえって話し手自身を動かすまでの力を生ずるものだったらしい。昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、じつは本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧れいりにしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。すなわちたくさんの神隠しの不可思議を、説かぬ前から信じようとしていたのである。
室町時代の中ごろには、若狭わかさの国から年齢八百歳という尼が京都へ出てきた。また江戸期の終りに近くなってからも、筑前の海岸に生まれた女で長命して二十幾人の亭主を取替えたという者が津軽方面に出現した。その長命に証人はなかったが、両人ながら古い事を知ってよく語ったので、聴く人はこれを疑うことができなかった。ただしその話は申合もうしあわせたように源平げんぺい合戦かっせん義経よしつね弁慶べんけいの行動などの外には出なかった。それからまた常陸坊海尊ひたちぼうかいそんの仙人になったのだという人が、東北の各地には住んでいた。もちろん義経の事蹟じせき、ことに屋島やしまだんうら高館たかだて等、『義経記』や『盛衰記』に書いてあることを、あの書をそらで読む程度に知っていたので、まったくそのために当時彼が真の常陸坊なることを一人として信用せざる者はなかったのである。
今日の眼から見れば、これを信ずるのは軽率のようであり、あざむく本人も憎いようだが、恐らくは本人自身も、常陸坊であり、ないしは八百比丘尼びくになることを、何かわけがあって固く信じていたものと思われる。それも決してありえざることではない。参河みかわ長篠ながしの地方でおとらという狐にかれた者は、きっと信玄や山本勘助の話をする。この狐もまた長生で、かつて武田合戦を見物していて怪我けがをしたという説などが行われていたために、その後憑かれた者が、みなその合戦を知っているような気持にならずにはおられなかったのである。
若狭の八百比丘尼は本国小浜おばまの或る神社の中に、玉椿たまつばきの花を手に持った木像を安置しているのみではない。北国は申すに及ばず、東は関東の各地から、西は中国四国の方々の田舎いなかに、この尼が巡遊したと伝うる故跡こせきは数多く、たいていは樹をえ神を祭り時としてはつかを築き石を建てている。それが単なる偶合ぐうごうでなかったと思うことは、どうしてそのように長命をしたかの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈絡がある。つまりは霊怪なる宗教婦人が、かつて巡国をしてきたことはあったので、その特色は驚くべき高齢を称しつつ、しかも顔色の若々しかった点にあったのである。人はずいぶんと白髪のしわだらけの顔をしていても、八百といえば嘘だと思わぬ者はないであろうに、とにかくにこれを信ぜしめるだけの、術だか力だかは持っていたのである。それが一人かはた幾人もあったのかは別として、京都の地へも文安から宝徳のころに、長寿の尼が若狭からってきて、毎日多くの市民に拝まれたことは、『臥雲日件録がうんにっけんろく』にも書いてあれば、また『康富記やすとみき』などにもちゃんと日記として載せてあるから、それを疑うことはできないのである。もっともこの時代は七百歳の車僧のように、長生を評判にする風は流行であった。しからば何か我々の想像しえない方法が、これを証明していたのかも知れぬが、いずれにしても『平家物語』や『義経記』の非常な普及が、始めて普通人に年代の知識と、回顧趣味とを鼓吹したのはこの時代だから、比丘尼の昔語りは諸国巡歴のために、大なる武器であったことと思う。ただ自分たちの想像では、単なる作り事ではこれまでに人は欺きえない。或いは尼自身も特殊の心理から、自分がそのような古いおうなであることを信じ、まのあたり義経・弁慶一行の北国通過を、見ていたようにも感じていた故に、その言うことが強い印象となったのではなかろうか。越中立山の口碑では、結界けっかいを破って霊峰に登ろうとした女性の名を、若狭の登宇呂とうろうばと呼んでいる。もしこの類の山で修業した巫女みこが自身にそういう長命を信じているならいであったら、のちに説こうとする日向小菅岳ひゅうがこすげだけの山女が、山に入って数百年を経たと人に語ったというのも、必ずしも作り話ではないことになるのである。やたらに人の不誠実を疑うにも及ばぬのである。

常陸坊海尊の長命ということは、今でもまだ陸前の青麻権現あおそごんげんの信徒の中には、信じている人が大分だいぶあって、これを疑っては失礼に当るか知れぬが、じつはこの信仰には明らかに前後の二期があって、その後期においては海尊さまはもう人間ではなかったのである。これに反して足利時代の終りに近く、諸国にこの人が生きていたという話の多いのは、正しく八百比丘尼と同系統の現象であった。事のついでに少しくあのころの世間の噂を比較してみると、例えば会津あいづ実相寺じっそうじの二十三世、桃林契悟禅師とうりんけいごぜんじ号は残夢、別に自ら秋風道士とも称した老僧はその一人であった。和尚おしょうは奇行多くまた好んで源平の合戦その他の旧事を談ずるに、あたかも自身その場にいて見た者のごとくであった。無々という老翁の石城いしき郡に住する者、かつて残夢を訪ねてきて、二人でしきりに曾我そが夜討ようちの事を話していたこともあった。しかも曾我とか源平合戦とかがもうちゃんと書物になっていることを知らず、あまり詳しいので喫驚びっくりするような人が、まだこの地方には多かったらしいのである。年を尋ねると百五六十と答え、いて問いつめるとかえって忘れたといって教えなかった。然らば常陸坊海尊だろうと噂したというのは、恐らくはこのころすでにかの仙人がまだ生きてどこかにいるように評判する者があったからであろう。また別の伝えには福仙という鏡研かがみとぎがきた。残夢これを見て彼は義経公の旗持ちだったというと、福仙もまた人に向って、残夢は常陸坊だと告げたともいうが、そんな事をすればあらわれるにきまっている。しかも和尚は天正四年の三月に、たくましい一篇のとどめて円寂えんじゃくし、墓もその寺にあるにかかわらず、その後なお引続いて、常陸坊が生きているという説は行われた。『本朝故事因縁集ほんちょうこじいんねんしゅう』には、「海尊げ去りて富士山に入る、食物無し、石の上にあめの如き物多し、之を取りて食してより又飢うること無く、三百年の久しき木の葉を衣として住む。近代信濃の深山に岩窟がんくつあり、之に遊びて年未だ老いず」とある。山におりきりの仙人ならば、こんな歴史も伝わらぬ道理で、やはり時々は若狭の尼のように人間の中に入ってきていたのである。能登の狼煙のろし村の山伏山やまぶしやまでは、常陸坊はこの地まできて義経と別れ、仙人になってこの山に住んだ、おりおりは山伏姿で出てきたと『能登国名跡志のとのくにめいせきし』に書いてあるが、それでは高館たかだて衣川ころもがわの昔話をするのに、甚だ勝手が悪かったわけである。加賀には残月という六十ばかりの僧、かつて犀川さいかわと浅野川の西東に流れていた時を知ってるといった。越後の田中という地にきて、小松原宗雪なる者と同宿し、穀を絶ち松脂まつやにを服して暮していたが、誰言うともなく残月は常陸坊、小松原は亀井六郎だと評判せられた。人が『義経記』を呼んで聴かせると覚えず釣込まれてそのころの話をしたと『提醒紀談ていせいきだん』巻一にあるが、亀井と馬が合うたとすれば能登で別れてしまったのではなさそうだ。『広益俗説弁こうえきぞくせつべん』巻十三には、海尊かいそん高館の落城に先だって山にのがれ、仙人となって富士・浅間・湯殿山ゆどのさんなどに時々出現するとあるが、羽前最上もがみ古口ふるくち村の外川とかわ神社の近くにも、海尊仙人が住んでいたという口碑あり、また陸前気仙けせん郡の唐丹とうにの観音堂の下にも、昔常陸坊が松前まつまえから帰りがけにこの地を通って、これは亀井の墓だと別当山伏の成就院じょうじゅいんに、指さし教えたと伝うる墓があった。永い年月には何処へでも往ったろうが、それにしてもあまりに口が多く、また話が少しずつ喰違っているのは、やはりたくさんの同名異人があったためではなかったか。ことに寛永の初年に陸中平泉ひらいずみの古戦場に近い山中で、仙台の藩士小野太左衛門が行逢ゆきあうたというのは、よほど怪しい常陸坊であった。源平時代の見聞を語ること、親しくこれをた者の通りであった故に、小野はただちに海尊なることを看破し、いて兵法を学び、またうやうやしく延年益寿の術をたずねた。異人答えて曰く、もと修するの法なし、かつて九郎判官ほうがんに随従して高館にいるとき、六月衣川ころもがわつりして達谷たっこくに入る。一老人あり招きて食をきょうす。肉ありその色はしゅのごとく味美なり、仁羮じんこうと名づく。従者怪みて食わず、これを携えて帰る。その女子これを食いまた不死であったが、天正十年までいていずれへかってしまったと語った。この話は若狭・越中その他の地方において、八百比丘尼の長生の理由として、語り伝うるものと全然同じで、仁羮はすなわち人魚の肉であった。日本の仙人が支那のように技術の力でなく、とうてい習得しがたい身の運のようなものを具えていたことを、説明しようとする昔話に過ぎぬのだが、これをさえ受売うけうりするからには仙翁でもなかったのである。しかるにもかかわらず、小野太左衛門はその説に感歎して、これを主人の伊達政宗だてまさむね言上ごんじょうし、後日に清悦せいえつ御目見おめみえの沙汰さたがあった。清悦とはこの自称長寿者ののちの名で、現今行われている『清悦物語せいえつものがたり』の一書は、彼が『義経記』を一読してこれは違っているといい、自ら口授したところの源平合戦記であった。『吾妻鏡あずまかがみ』や『鎌倉実記』と比較して、一致せぬ点が多いというのは当り前以上である。しかし出来事の評判は非常であったと見えて、寛永以後なお久しい間、清悦の名は農民の頭から消えなかった。岩切の青麻権現の岩窟に出現したのは、それからおよそ五十年の後、ちょうど『清悦物語』が世に出てから、十五年目の天和二年であったという。鈴木所兵衛という、信心深い盲人が、彼に教えられて天にいのり、目が開いたという奇跡もあった。その時は気高い老人の姿で現れて、われは常陸坊海尊、今の名は清悦である。久しく四方を巡って近ごろ下野の大日窟にいたが、これからはここへきて住もう。この窟には何神を祭ってあるかと尋ねるので、大日・不動・虚空蔵こくうぞうの三尊だと答えると、それは幸いのことだ、自分の念ずるのも日月星、今より三光穴と名づくべしといって、すなわち岩窟に入って※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)てっさをもって上下した。これが人魚を食べた常陸坊のまた新たなる変化であった。ただしこの縁起えんぎはそれから更に八十余年を経て、再びこの社が繁昌はんじょうしたのちのもので、以前の形のままか否かは疑わしい。近年になっては一般に、常陸坊は天狗だと信じられていた。常陸国の阿波あばの大杉大明神だいみょうじんも、この人を祭るという説があり、特別の場合のほかは姿を見ることができなかった。しかも一方には因縁がなおつながって、おりおりは昔の常陸坊かも知れぬという老人が、依然として人間にまじって遊んでいた。
話が長過ぎたがやはり附添つけそえておく必要がある。青麻権現の奇跡と同じころに、同じ仙台領の角田かくだから白石しろいしの辺にかけて、村々の旧家に寄寓きぐうしてあるいた白石しろいし翁という異人があった。身のたけ六尺眼光は流電のごとく、またなかなかの学者で神儒しんじゅ二道の要義に通じていた。この翁の特徴は紙さえ見れば字をかくことと、それからまた源平の合戦を談ずることとであった。年齢は言わぬが誰を見てもセガレと呼び、角田の長泉寺の天鑑てんがん和尚などは百七つまで長命したのに、やはりセガレをもってまじわっていた。或る時象棋しょうぎをさしていて、ふと曲淵まがりふち正左衛門の事を言いだしたが、この人は二百年前にいた人であった。身元が知れぬのでいろいろの風説が生じ、或いは甲州の山県昌景かといい、信玄の次男の瞽聖こせい堂の子かともいい、或いはまた清悦であろうともいった。元禄六年の二月十八日に、白石在の某家でたしかに病没したのだが、それから十何年ののち、或る商人が京都に旅行して、途中で白石翁を見たという話も伝わっていたから、かりに海尊であったとしても理窟だけは合うのである(以上『東藩野乗とうはんやじょう』下巻および『封内風土記』四)
さてこれらの話を集めてみて、結局目に立つのは、常に源平の合戦を知っていることが長命の証拠になったという点である。東北地方の旧家のことに熊野神社と関係あるものは、最も弁慶や鈴木・亀井の武勇談を愛好し、なるたけ多く聴きたいという希望が、ついに『義経記』のごとき地方の文学を成長せしめたのだ。これに新材料を供与する人ならば、異常の尊敬を受けたのは当然である。それも作り事と名乗っては、人が承知せぬのが普通であった。すなわち座頭の坊の物語がはやくから、当時実際に参与した勇士どもの霊の、託言または啓示なることを要した所以ゆえんである。常陸坊は高館落城の当時から、行方不明と伝えられていた故に、後日生霊いきりょうとなって人にくにさしつかえはなく、また比較的重要でない法師であって、ていた様子を語るには都合がよかった。だから、一時的にはわれは海尊と名乗って、実歴風に処々の合戦や旅行を説くことは、いずれの盲法師めくらほうしも昔は通例であったかと思うが。それがあまりに巧妙でかたわらの者が本人と思ったか、はたまた本人までが常陸坊になりきって、いわゆる見てきたようなうそをついたかは、今日となってはもう断定ができぬ。それから第二の点は支那の寒山拾得かんざんじっとくの話のごとく、残夢は無々と語り福仙と相指あいゆびざし、残月は小松原宗雪と同宿し、清悦は小野某を伴ない、また白石翁が天鑑和尚をせがれと呼んだこと、これも多分は古くからの方式であったろうと思う。陸中江刺えさし黒石くろいし正法寺しょうぼうじで、石地蔵が和尚に告げ口をしたために常陸かいどうの身の上があらわれた。帰りにその前を通ると地蔵がきな臭いような顔をしたので、さてはこやつがしゃべったかと、鼻をねじたといって鼻曲はなまがり地蔵がある。これは紛れもなく海神わたつみの宮の口女くちめであり、また猿のきもの昔話の竜宮りゅうぐう海月くらげであって、こういう者が出てこないと、やはり話にはなりにくかったのである。だから眼前のただ一つの例をって、不思議を説明しようとするのは誤った方法である。近くは天明の初年に、上州伊香保いかほ木樵きこり、海尊に伝授を受けたと称して、下駄灸げたきゅうという療治を行ったことが、『翁草おきなぐさ』の巻百三十五にも見えている。彼も福仙と同じく義経の旗持ちであったのが、この山に入って自分もまた地仙となったという。下駄だの灸だのという近代生活にまで、なお昔の奥浄瑠璃おくじょうるりの年久しい影響が、あととどめているのはなつかしいと思う。

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