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ネットで見つけた、都市伝説・怪談・ほんとにあった怖い話・世にも奇妙な物語・心霊系・不思議系・電波系・オカルト系のお話シリーズです♪

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師匠シリーズ 057話 古い家(2)(3)

      2016/09/04

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057 師匠シリーズ「古い家 2」

ただ僕と同じように、そこかしこに光から逃げるような影があるような気がしたのか、師匠はむやみたらと明かりを四方八方に向けては、「うぅ」と唸っている。

店の正面玄関にあたる戸の裏側(『醤』の字が書かれていた戸か?)には、やはり頑丈そうなつっかえ棒が何重にもしてあるのが見えた。

こっちに全力で体当たりしてたら、と思うと僕はぞっとした。

その後も二人で家の中の小部屋などを探索したが、なにも目立った成果はなかった。

つまり、『この世のものとは思えない呻き声が聞こえる』という噂にまつわるような何事も起きなかったし、何も見つからなかった。

「人の気配はまったくないですね」

僕の囁きに師匠は「う~ん」と首を捻る。なにかに合点がいかない様子だ。

確かにこんなところまで遠征して来て、不法侵入までしてなにもなかったでは、納得がいかないのだろう。

そう思っていると、師匠が首を捻ったままポツリと呟いた。

「2階へはどうやって上るんだ」

ゾクッとした。

2階?

外から見えていた2階の格子戸。あの奥には部屋があるはずだ。

あそこへはどうやって上る?

この家には階段がないじゃないか。

見落としがあったのかも知れない。そう思って、もう一度家の中をぐるりと回る。

しかし、階段はおろか、その跡さえ見つからなかった。

「こういう造りの家だと、階段はどこにあるのが普通なんだ」

師匠の言葉に答える。

「たいていは店の間の端です。まあ台所の横にあったりもしますが」

「ないじゃないか。どこにも」

おかしい。

縄梯子で出入りでもしているのかと思って天井を観察したが、そんな痕跡は見当たらなかった。

ひょっとして、家の外側から架け梯子などで出入りしていたのではないか。

そう思いはじめた頃、僕の耳は魂の芯が冷えるようなものを捉えた。

うううううう……………

そんな呻き声がどこからともなく聞こえた気がした。

思わず身を硬くする。

気のせいじゃない。その証拠が僕の目の前にある。

師匠が口唇に人差し指をあてて、険しい表情で姿勢を低くしているからだ。

静かに。

そう僕に目で指示をしてから、師匠はゆっくりとすり足で進み始めた。

嫌な汗がこめかみを伝う。

僕らがいた店の間から通りにわに入り、懐中電灯の丸い光がつくる埃の道を息を殺して進む。

急に暗闇が深くなった気がした。

室内には、単一の光源では届かない闇があるのだと、今更ながら思い知る。

一瞬目を離した隙に、その闇の中へなにかが身を隠したような想像が沸き起こる。

うううううう…………

微かな呻き声に耳をそばだてながら、師匠が足を止めた。

最初に上った座敷の前だ。

ゆっくりと畳に足を乗せ、師匠は座敷に上り込んだ。

たわんだ畳に引っ張られるように、骨だけの障子がカタリと音を立てた。

「おい」という押し殺した声に引っ張り上げられて、僕も座敷に上る。

師匠は部屋の隅の押入れの跡に光を向ける。

取り外されたのか襖もない。ただ部屋にぽっかりと開いた穴のような空間だった。

まだ呻き声は続いている。

しかも、明らかに近くなったようだ。

師匠が押入れの床をモゾモゾと撫で回していたかと思うと、ズズズ……という木が擦れるような音とともに、目に見えない空気の流れが顔に押し寄せてきた。

師匠が僕の方を振り返る。

そして、押入れの床を明かりで照らす。光はある一点で吸い込まれるように消えている。

そこには隠し板の蓋を外された穴があった。大きさは人が優に入り込めるほどのもの。

師匠の身振りに近くへ寄った僕は、その穴の中を恐る恐る覗き込んだ。

そこには地下へ伸びる木製の階段があった。

空気が吹き上がってくる。

うううううう……………

空洞を抜ける風の音。

これが唸り声の正体か。

ごくりと唾を飲み込む僕に師匠が囁く。

目を爛々と輝かせて、「さあ、行こうか」と。

僕は思い出していた。

父方の祖父の家にある古い土蔵。その奥に地下へ伸びる隠された階段がある。

その下には秘密の部屋があり、巨大な壷が置いてあった。

子どものころ、父に連れられてその階段を降りる時の、あの、気づかないほどゆるやかに、少しずつ自分が死んでいくような感覚。

いたずらを叱られた僕は、父にその壷の中へ押し込められるのだ。

壷はあんまり静かに立っているので、座っているように見える。と言ったのは誰だったか……

どちらにしても、黄色い照明が照らす地の底で一人きり壷に呑み込まれた僕は、身を丸め、重い石でそらに蓋をされるのを見ていることしかできない。

そうして一切の明かりのない世界に閉じ込められた僕は、遠ざかっていく足音を聞く。

それからやがて自分のいる場所が、地の底とは思えなくなってくる。

もっと下があるような気がしてくるのだ。

「どうした」と呼ばれ我に返る。

師匠が懐中電灯を下に向けながら、ソロソロと足を階段に掛けていく。僕もそれに続く。

ギイ、ギイ、と古い木が軋む音。2階から1階に降りる階段とは違う。

たとえ外が見えない建物の中でも、地中へ入っていく階段は確かにそれと分かる。皮膚感覚で。あるいは臓器で。

階段は急だ。1段1段が物凄く高く、また足を置く踏み面も狭い。

下を見ると、ほとんど垂直に降りているような錯覚さえ抱く。

足を滑らせたら大変だ。

そう思って慎重に一歩一歩進めていく。

すぐに壁に突き当たる。右側に開いた空間に回りこむと、また下に伸びる階段が続いている。ただの折り返しだ。

「地下で醤油でも寝かせてるのかな」

師匠が呟いたが、そうは思えない。

醤油が湿気の多い地下で保存するのに適したものとは思えないし、なにより、入り口が押入れに隠されていたというのが不穏当だ。

地下から吹き上がってくる微かな風が頬に触れる。

黴臭い匂いが鼻につく。

すぐにまた壁に突き当たった。師匠がゆっくりと明かりを右側へ向けていく。

「おい」という声。

僕もそこに並ぶと、下に伸びる階段が目に入る。

「まだ下があるぞ」と師匠が呟く。

懐中電灯に照らされる下には、また同じような漆喰の壁が光を反射している。

そして、まったく同じように、右側の空間が光を吸い込んでいる。

「どこまで地下があるんだ」

僕らはその階段を降りていった。ギイギイという木の音と、風の音。

薄汚れた漆喰の壁と、またくるりと折り返されて続く道。

2回。3回。4回。5回。6回。

折り返しの数を数えていた僕は、頭の中に虫が飛ぶような奇妙な雑音が入って、だんだんと次の数字が分からなくなる。

7回。8回。9回。次は10回だ。10回。10回だ。ああ。また階段が。

これで11回だから次で。いや、今ので10回じゃなかったか。次で……

先へ進む師匠が急に足を止めた。

天井に懐中電灯を向ける。

「煤だ」

天井と言っても、それは低く斜めになって下へ伸びる木製の天板。

僕らが降りてきた階段の底板が、その下の階の天板になっているのだろう。

その天井一面が、薄っすらと黒くくすんで見える。

「気づかなかったけど、足元も煤でいっぱいだ」

頭の中に、蝋燭を持ってこの階段を降りる人間のシルエットが浮かんだ。

いったいどれほどの長い時間、この地下への階段が使われていたのか。

師匠が身体を屈めて踏み面を凝視する。

「おい。見てみろ。積もった埃と煤に、薄っすら踏み荒らされた跡がある」

「そりゃあ、この家の人が昔、出入りしてたでしょうから」

「でもあの上の家屋の荒廃っぷりからしたら、この階段も使われなくなって、相当時間がたってるはずだ。煤はともかく、埃が溜まっているはずなんだ。その上にどうして足跡がついている?」

誰かこの下にいるのか。

今でもここを昇り降りしている人間がいるのだろうか。

『この世のものとは思えない呻き声が聞こえる』という噂。

あれは、この階段を吹き抜ける風の音ではなかったのだろうか。

いや、僕の頭はその時、同時にまったく別のことを想像していた。

それは、折り返しの回数を数えている間に脳裏をよぎった、薄気味の悪い考えだ。

何度か振り払おうとしたが、今、目の前の誰のとも知れない微かな足跡を見て、それが言葉を成した。

これは、“僕らの足跡ではないだろうか”と。

その瞬間、ぞわぞわと背筋に嫌な感覚が走り、僕は立ち上がった。

「上、見てきます」

師匠にそう言い置いて、もと来た階段を昇り始める。

まるで壁のように立ち塞がる急峻な1段1段を、両手をつきながら昇っていく。

1つ。2つ。3つ。4つ。

折り返しをいくつ繰り返せば、元の押入れに出るのか。

僕らは降り続けていたはずのに、何故か同じ場所をぐるぐると回っていたのではないか?
そんなはずはない。そう思いながら、バタバタと音を立てながら駆け昇っていく。

苦しい。息が切れる。そして暗い。何も見えない。

しまったな。明かりを借りてくれば良かった。

何度目の折り返しだっただろう。ふいに僕の耳は、女性の悲鳴を聞き取った。

下だ。

師匠の名前を叫びながら、踵を返して再び階段を駆け降りる。

足がもつれて階段を踏み外しそうになりながら僕は急いだ。

ガタタタタと、ついに尻餅をついて半ば滑り落ちながら、師匠の持つ懐中電灯の光を視界に捉える。

「ど、どうしました」

顔をしかめながらようやくそう言った僕に、師匠は少しバツが悪そうな調子で「いや、蜘蛛が」と言って、壁際の天井の隅に巣を張る蜘蛛の姿を照らし出した。

僕はホッと息をつきながらも、その大きな背中の模様が人の顔に見えて、思わず目を逸らす。

「なあ」と師匠が小声で話しかけてくる。

「上でも、蜘蛛がいただろう。蜘蛛の巣もいっぱいあった」

何を言い出したのかと思って先を待つ。

「ここでもそうだけど、その蜘蛛の巣は全部天井とか柱の上の方にあって、 私らの顔にベタってついたりはしなかったな」

そうだった。

そうだったが、それは言われてみると確かになにか変だ。

「ヒトが通る空間にだけ蜘蛛の巣がないってことはさ、誰かそこを通ってるってことじゃないか。たとえば、ここも」

師匠がまた下への階段を照らす。

ひくっと喉が鳴った。それは僕のだろうか。それとも師匠のだっただろうか。

あ、まずい。この感じは。

師匠が「戻るか?」と囁いた。

僕は「行きましょう」と応える。

止まるべき所で止まれない感じ。それは確実に僕の寿命を縮めているような気がした。

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057 師匠シリーズ「古い家3

ミシ、ミシ、という音とともに、再び僕らは地下へ降り始めた。

蜘蛛の巣を見上げながら角を曲がると、階段はまた下へ続いている。

なんだこれは。いくらなんでも深すぎる。

これだけ地下へ穴を掘ると水が出るはずだ。

大きな水脈に当たらなかったとしても、水の浸入を防ぐためには壁を何重にもしなくてはならないだろう。

そんな面倒なことをしてまで地下へ降りる階段を作る、どんなメリットがあるというのか。

それもおそらく明治時代以前の工法で、壁に当たって折り返す、壁に当たって折り返す、その繰り返しをどれほど続けただろう。

途中から、数を数えることさえ忘れてしまった。

外は夜だ。晴れた夏の夜のはずだ。けれどここは、まるで時間が止まってしまったかのような空間だった。

たとえ外が曇りでも、雨でも、朝でも、昼でも、なにも変わりはしないだろう。

10年前も、20年前も、日本が戦争に負けた時だって、この地下の空間はこのままの姿でここにあったのだろう。

風が頬に触れる。吐息のように、さらなる地下の存在を囁く。

自然に僕も師匠も息を殺しながら進む。

「なあ」

先を行く師匠が頭をこっちに向けもせずに言う。

「この家ってさあ。どっからも入れなかったよな」

「はい」

応えながら、『戸をぶち破らせたのは誰だよ』と心の中で毒づく。

「この家を放棄した人間たちは、どっから出たんだ」

ああ。そんなこと、今は忘れてしまっていたい。

ゾクゾクと嫌な震えが背中を通り抜ける。

でも確かに、かんぬきだかつっかえ棒だかは、すべて内側からだった。

現代のように、外から開け閉めできるような鍵はない。

では、戸締りをした最後の一人は、いったいどうやって外に出たのか……

まるですべてが、この廃墟の中の住人の存在を示しているようじゃないか。

それはつまり、この階段の行き着く先に『それ』がいるということだ。

僕は息を飲みながら足を動かし続け、早く階段の先の壁が尽きることを半ば望み、そして半ば以上恐れていた。

高すぎる蹴上に頭がガクガクと上下に揺られ続け、意識が少しずつ朦朧としてくる。

終わらない階段は、麻薬のように僕の脳を冒し始めているのかも知れない。

どこまでも深く降り続ける感覚が、どうしようもなく心地良くなってくる。

足を踏み出すたびに階段の床が軋み、壁が軋み、天井が軋む。

懐中電灯の光に、パラパラと振ってくる埃が小さな影をつくる。

きっと身体中、真っ黒になってしまっていることだろう。

眼下に師匠の頭が揺れている。試しに階段を一段一段数えてみる。

……50を越えたあたりでやめてしまった。

ふと、子どものころ体験した、祖父の家の土蔵の地下のことを考える。

ひょっとすると僕も師匠も、いつの間にか死んでいるのかも知れない。

どこまでも深く降りていく狭い階段に、“いつ”がその瞬間だったのか気づきもしないで。

まるでこの階段自身が呼吸しているかのように、風がかすかな唸り声を纏って身体をすり抜けていく。

誰も何も喋らなくなった。もう上がどうなっているか確かめようなんて気は起こらない。

ひたすら、下へ。下へ………

気持ちが良い。底なんてなければいいのに。

「あ」

師匠の声が僕の意識を覚醒させる。

折り返しの壁に沿って身体を反転させようとした師匠が、立ち止まって右側を見ている。

僕もその横から首を伸ばして、懐中電灯の光の先を見る。

階段はもう無かった。

四方を壁に囲まれた窮屈な板張りの廊下が、水平方向に伸びている。

息を潜めながら師匠がゆっくりと足を踏み出していく。

僕は眼を閉じてしまいたかった。それでも、師匠の背中に隠れるように後を続く。

懐中電灯の丸い光が、朽ち果てたような木戸を闇の中に照らし出す。

「気をつけろよ」

そう囁きながら師匠が軽く左手で押す。

キィ
という音とともに、戸は奥へ開いていった。

「なんだここ」

師匠がすり足で慎重に中に足を踏み入れる。

そこは畳敷きの部屋だった。八畳間くらいだろうか。

師匠が8の字に波打つように懐中電灯を動かし、部屋の中を少しづつ照らしていく。

背の低い和箪笥が壁際にぽつんとあるのが見えた。そしてその隣には錆付いた燭台。

壁の表面の一部が崩れて、土くれが床にぽろぽろと転がっている。

殺風景な部屋だった。人の気配はない。生活の気配も。

畳からは黴の匂いが立ち込めてくる。

天井には蜘蛛の巣。

地下に部屋があると知った時点で、座敷牢のような所を想像していた僕は、むしろ心地の悪いズレのようなものを感じた。

まるでこの家の住人の一人にあてがわれた、ただの部屋のような佇まいだったからだ。

あの長い階段さえなければ。

僕の頬を生暖かい風が撫でていく。

時が止まったように、風の吹いてくる方向を師匠は見つめている。

正面の壁に四角く刳り抜かれた穴がある。

両手を広げたくらいの幅のその穴の外周には、木で出来た枠がある。

窓だ。

そう思った瞬間、身体の中を無数の手が這い登っていくような、気持ちの悪い感覚に襲われる。

窓には格子戸がかかっている。

その格子と格子の間の狭い隙間から、向こうの景色が微かに覗いている。

師匠がゆっくりと近づいていく。

揺らめく懐中電灯の光が、格子とその隙間とに妖しい縞模様を映し出している。

師匠が窓辺に立って、ゆっくりと息を吐く。

僕も何かに魅入られたように足を運び、師匠の隣に並ぶ。

格子の隙間から風が入り込んできている。その向こうには暗い空間が広がっている。

暗いけれど闇ではない。

遠くに黄色く光る街灯がぽつんと立っている。静かな畦道が横に伸びている。

黒々とした山なみがその果てに見える。蛙の鳴き声がかすかに聞こえる。

いったいここはどこなんだ?

応えるものはなにもなく、ただ朧夜の底の光景が僕らの前にあった。

畦道の向こうから、揺れる明かりが近づいて来るのが見える。

わずかに見下ろす。ここは地面よりも少し高い所にあるらしい。

明かりとともに、畦道をやって来る人影が見えた。ここからでは遠くて人形のように小さい。

ああ。近づいてくる。

そう思った瞬間、僕は師匠の腕を掴んだ。そして有無を言わさず窓際から引き離す。

「戻りましょう」

そう言って、入って来た部屋の戸に向かう。

胸がドン、ドン、と高鳴っている。

怖い。

怖い。

頭がそれ以外の言葉を紡ぐのを恐れている。

戸惑ったように動きの鈍い師匠から懐中電灯をもぎ取り、板張りの廊下へ先に踏み出す。

早足で狭い廊下を抜け、仰ぐように聳える階段に足をかける。

そして降りて来た時よりもっと高くなったような気がする一段一段を、闇雲に昇っていく。

怖い。

怖い。

壁に突き当たり、左に曲がる。

折り返すとまた階段が上に続いている。どこまでも続いている。

足音が一人分しか聞こえない。

そう思った瞬間、バキィッ、という破壊音が空気を震わせた。

足が止まる。

下からだ。

僕は振り向くと、飛ぶように階段を駆け降りた。

下まで着くと、嫌な音のする廊下を走り抜け、戸が開いたままの部屋に飛び込む。

師匠が金属製の燭台を両手で振り上げ、窓の格子戸に叩きつけている。

木製の格子が1本、2本と砕けて、外に落ちていく。

僕は師匠の名前を叫んで、腰のあたりに組み付いた。

その頃の僕にはまだ、けっして越えてはならない境界線というものが確かにあったと思う。

この世のことわりが捻じ曲がり、目に映らなかった世界が剥き出しになる瞬間にさえ、自分の戻るべき場所を振り返ってしまう、そんなくだらない人間だった。

燭台を投げ捨て、格子戸の大きく破れた部分に手をかけて、外へ身を乗り出そうとする師匠を必死で止める。

羽交い絞めにして、ジタバタともがく身体を窓から引き剥がす。

なにかを喚いているが聞かない。

その格好のままズルズルと引っ張って、もと来た部屋の戸口に向かう。

師匠を前に向けて廊下を進み、階段の下まで来ると、斜め前方に無理やり押し上げた。

そして師匠のお尻に頭のてっぺんをつけて、グイグイと力任せに押していく。

「……っ!……っ!」

何かを叫んでいる。

折り返しをいくつか過ぎたあたりでようやく耳に入った。

「わかった。わかったから。危ないから、もう押すな」

それで少し勢いを落とした。師匠は溜息をつきながら、僕に押されないように早足で進む。

たった一つの懐中電灯は、再び師匠に渡してしまった。

昇っても昇っても階段は先へ続いている。息が荒くなり汗が額から滴り落ちる。

でも止まれなかった。得体の知れない強迫観念に追い立てられて。

やがて僕の耳は、僕のでも師匠のものでもない別の足音を捉える。

酸素が足らなくなり前方の視界が暗くなる中で、僕はその音が現実なのかどうかを考える。

真上から聞こえてくるような気がした。その足音が降りてきているような。

次の角を曲がった時には、それと出くわしてしまうような……

急に前を行く師匠が立ち止まり、「目を閉じて息も止めてろ」と早口に言った。

僕はとっさに反応し、右足だけ次の段に掛けたまま目を閉じて息を止める。

苦しい。平常時ならともかく、今は30秒ももちそうにない。

その苦しさが恐怖心を一瞬忘れさせた時、僕の身体の中を嵐のような声が通り過ぎた。

たくさんの人間の唸り声のような、呻き声のようなそれは、僕の身体を凍りつかせた後、背中から抜けてそのまま階下へと消えていった。

やがてそれは、僕らの足元の遥か下の階を降りていく足音に変わる。

それは、すれ違うこともできない狭い一本道を、一度も僕の身体に触れないまま通り過ぎて行ったのだった。

「行こう」と言うように服を引っ張られ、目を開ける。

一体なにが通り抜けて違ったんですか?

そんな問い掛けを口にしようとして、僕の目の前にいるそれが師匠ではないことに気づく。

悲鳴をあげそうになり口を押さえる。

青白く冷たい相貌。僕を不安定にさせる氷のような顔。

ああ、これは父だ。僕を怖い場所へ連れて行く父だ。僕の手を掴んで、地面の底へと……

「どうした」

いきなり平手が飛んで来た。

頬の痛みに僕は我にかえり、その瞬間に吸い込んだ酸素が脳髄に行き渡る。

視界の端に視神経の火花がキラキラと散る。

「幻覚でも見たか」

目の前の人間が師匠の姿に戻り、その右手が僕の手の甲を掴んだ。

そして僕を引っ張りあげるように高い階段を昇り始める。

「さっきのは、なんだか、正直、わからん」

師匠のハァハァという息遣いが、螺旋状の狭い筒のような空間に響く。

煤で汚れた手で汗を拭くので、僕らは顔中が黒くなっていることだろう。

降りる時には有限だった折り返しが、今度も有限である保障なんてどこにもない。

けれど、僕は今一人ではないというその一点だけにしがみついて、ひたすら足を上げ続けた。

足が震え一歩も歩けなくなりかけた時、懐中電灯の照らす上空に、ポッカリと四角く開いた空間が出現した。

「戻ったぞ」

師匠がその穴から這い出る。僕も続く。

そこは座敷の押し入れで、脇に避けられた木製の蓋も饐えた畳の匂いも、もと来た時のままだった。

随分時間が経ったような気がするし、あっという間だったような気もする。

ただ、あれほどおっかなびっくり探索していた古い家の中が、まるで自分の部屋のように感じられてしまうのは不思議だった。

師匠が「よっ」と力を入れて蓋を動かし、地下への入り口を封印する。

蓋が閉じきる寸前に、狭くなった空気の通り道を、生暖かい風が抜けて嫌な音を立てた。

うううううう……………

その呻き声のような音もやがて消えた。

完全に隙間なく蓋を閉めると、空気は漏れないようだ。これでこの家にまつわる噂もなくなるだろうか。

そう思った瞬間、ズズズズン、という地の底から響いてくるような衝撃が、周囲の闇を振るわせた。

崩落を示す振動。

地下の階段からだ。それはすぐに直感した。

そして、もう地面の奥底のあの部屋にはたどり着けなくなったことも。

土埃のような匂いが蓋から染み出してくる。

師匠は「あ~あ」と言って鼻を鳴らした。

そして息を整える暇もなく、「出よう。嫌な感じだ」という言葉に僕は従う。

走らない程度に急いで、入る時に僕が壊した裏の戸口から外に出た。

裏庭を抜け、雑草を掻き分けて、土塀の朽ちた木戸を潜る。そのあいだ、僕ら以外のなんの気配も感じなかった。

「お風呂に入りたい」

師匠がそう言いながら家に背を向け、遠くの黄色い街灯を目印に畦道の方へ進む。

僕は立ち止まり、その家の『醤』と書かれた正面の構えを眺める。

その僕の様子に気づいて師匠が振り返り、懐中電灯を二階に向けた。

二階の窓の格子戸は、最初に見た時のまま整然と並んでいる。

「調べてみたいなんて言うなよ」

師匠の声が冷たく響く。

「あの葡萄は酸っぱい、だ」

師匠は踵を返して歩き出す。置いていかれまいと追いかける。

蛙の鳴き声を聞きながら、僕は落ち込んでいた。

あの、地下室の窓辺で取り乱していたのは僕だった。喚いて羽交い絞めを振りほどこうとしていた師匠ではなく。

それは僕にも師匠にも良く分かっている。

また失望させてしまったし、それを面と向かって責められないことも逆に辛かった。

けれどあの時、師匠を止めていなかったとしたら、僕にはその後の世界を想像できないのだ。

「すみません」と言って僕は頭を垂れた。

(了)

 

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