【厳選】 怪談・都市伝説・怖い話まとめ

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師匠シリーズ 055話 天使(2) (3)

      2018/09/24

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055 師匠シリーズ「天使2」

「またカラオケ行く?奢っちゃうよ。ゲーセンは?あ、気になってる喫茶店あるんだけど、行かない?」

周囲にも聞こえる声だった。

ひょっとするとヨーコなりに、私をクラスに馴染ませようとしてくれていたのかも知れない。

けれど、他からの参加希望の声はあがらなかった。

私はクスッと笑って、「わかったわかった。行こう」と言った。

「やった。デートだ」

そんなことを言っておどけるヨーコに、私はたしなめるように問いかける。

「それにしても、よくそんなにしょっちゅう遊びに行けるな。小遣い足りなくなっても貸さないぞ?」

「いーじゃない。お金は若いうちにあるだけ使わないと」

ヨーコはからかうように言い返す。

よく見ると、彼女は腕時計や靴にさりげなくお金をかけている。

休日に私服で会うと、なんだか自分の服装がみすぼらしく感じて気恥ずかしくなる。

根掘り葉掘りと聞いたことはないけれど、きっと親が金持ちなのだろう。

私のような庶民とは、少し感覚がズレているのかも知れない。

連れ立って教室を出ようとしたとき、背筋に絡みつくような視線を感じた。

反射的に振り向くと、二人の女子がビクリと肩を震わせながらこちらを見ている。

またあの二人だった。島崎いずみに高野志穂。

強張った表情を浮かべたかと思うと、二人してくるりと振り返り、教室の後ろのドアから逃げるように出て行った。

「なにあれ、感じ悪い」

ヨーコが眉を寄せて言い放つ。

確かに感じが悪い。まるで本当に私を怖がっているようではないか。

さっき聞いたばかりの私に関する噂を思い出して気分が悪くなった。

島崎いずみが自殺未遂をしたというニュースを聞いたのは、それから1週間後だった。

あの時、怯えたような目で私を見ていた二人の女子の名前を、両方ともすっかり忘れてしまっていたので、

「そんなコいたっけ?」というのが第一の感想だった。

そう言われてみると、眼鏡の子はここ2,3日学校に来ていなかったようだ。

なんでも、家が近所だという同じクラスの女子が、昨日たまたま通りがかった時に、彼女の家の前に止まっている救急車に気がついたのだという。

すでに数人集まっていた近くの主婦たちから聞くところによると、学校を休んで一人で家にいた島崎いずみが、風呂場で手首を切ったのだとか。

流れ出る血に怖くなって自分で救急車を呼んだらしく、軽症と言えそうだが、その後とりあえず入院することになったらしい。

そんな話が始業前にすでにクラス中に広まっていた。

みんな身近で起こった事件に、不謹慎な興味と、それからわずかな罪悪感を持って噂をしあった。

『どうして』という部分には、大なり小なり自分たちも関わっているという自覚があったに違いない。

表立って苛められているというわけでもなかったが、地味なやつ、つまらないやつ、というレッテルを貼られた子が、クラスでどういう位置にいたか、誰だって知っているのだから。

かばい合うようにいつも一緒にいた高野志穂は、好奇の目で見られることに耐えらなくなったのか、それとも友だちの自殺未遂という選択にショックを受けたのか、1時間目に青い顔をして早退を申し出て許された。

重そうな鞄を持って教室を出る彼女の横顔を見ていた私は、その頬の絆創膏が1週間前から増えていることに気づいた。

こんな不愉快な噂話に乗っかるのは自分でも嫌だったが、どうしても気になってヨーコに聞いてみた。

「ああ、高野さんの絆創膏?彼女たしかバレー部に入ってるから……相当しごかれてるっていうか、いびられてるらしいよ」

そう言うヨーコもニュースがショックだったのか、いつものハキハキした調子がない。

私にしても、まったく身に覚えのない罪悪感が、ひっそりと肩に乗っているのを感じていた。

どうして彼女たちは私をそんなに怖がったのだろう。

頭の中に真っ黒い雲がかかったようで気持ちが悪かった。

だからだろうか。

3時間目の休み時間に、クラス中でひそひそと交わされる噂話にそれとなく耳を傾けていた私は、ある単語に強い関心を惹かれた。

「間崎京子」

そんな名前が、飛び交う無数の言葉の中で、あきらかな異質さを持って飛び込んで来たのだ。

思わずその話をしていたグループの所へ行って詳しい話を聞く。

「え?だから、その間崎さんのトコに、島崎さんが出入りしてたって話。なんでって、よく知らないけど。あの人、なんか占いとかするらしいから、悩み相談でもしてたんじゃないかな」

礼を言って自分の席に戻る。

間崎京子。1週間前、昇降口で私に話しかけてきた女子。あの時の彼女の言葉が頭の中でグルグルと回る。

「恨みはなるべく買わない方がいい」

ひょっとするとあれは、目の前で顔も知らない誰かのラブレターを乱暴に扱った、私に対する警告ではなかったのかも知れない。

彼女は別のなにかを知っていて、そう言ったのではないだろうか。

たまらなくなって席を立ち、教室を出る。

あちらこちらでセーラー服のかたまりが出来ているざわつく廊下を抜け、間崎京子がいるはずの教室を目指した。

教室の前にたどり着くとドアは開け放たれていたので、そっと中を覗く。

何人かの女子が私に気づいて、無遠慮な視線を向けてくる。

このクラスのことは全く知らないので、間崎京子が普段どのあたりに座っているのか見当もつかない。

しかし、見渡した限りはどこにもいないようだった。

軽い失望を覚えた時、見知った顔に出くわした。

「石川さん」と呼ぶと、向こうでも私と認めたらしく、笑顔でドアの所までやってきた。

「ちひろちゃん、どうしたの」

同じ中学だった子だ。それほど親しかったわけでもないけれど、このさい縁にすがらせてもらおう。

「間崎さんはこのクラスだよね」

石川さんは一瞬表情を硬くした。そして声を潜めて言う。

「そう。だけどさっき早退したよ」

肩を叩かれ、誘導されるままに廊下の隅に身を寄せた。リノリウムの床がキュッキュッと鳴る。

「あのさ。島崎いずみさんのことだよね」

驚きながらも頷いた。どうやら噂は、こんな遠くの教室まで短時間に飛び火していたらしい。

石川さんの話によると、島崎いずみは本当に間崎京子の所へ時々来ていたらしい。

そして教室の一番奥の席で、なにごとか語り合っていたそうだ。

間崎京子の所には彼女だけじゃなく、他にも数人の女子がまるで女王を慕うように出入りしていたとのことだった。

「間崎さんってさ、なんていうか、人の心を見透かしてるみたいな、冷たい目をするのよね。凄い美人だから、それが余計凄みがあるっていうか。怖いくらい。話してみても、時々意味わかんないこと言うし。クラスのみんなは、彼女を警戒して避けてるって感じかな」

私の第一印象と同じだ。彼女には気を許せない雰囲気がある。

「こないだなんてさ、それこそ島崎さんと二人で向かい合ってさ。なんか机の上に、トランプみたいなカードを並べてるの。なんかね、『土』って字の形に。気持ち悪かった」

なんだろう。間崎京子がよくしているという占いの一種だろうか。

「島崎さんは、なにをしにきていたんだろう」

石川さんは首を振って「わかんない」と言った。

「ただね、その時間崎さんがなにかを言って、島崎さんが泣いてたみたい」

そんなことがあったから石川さんは、島崎さんが自殺未遂したという話を聞いて、間崎京子にカマをかけてみたのだそうだ。

「どうして島崎さんが自殺なんかしたんだろうね。間崎さん知らない?」と。

「どう答えたんだ?」

知らず知らずにトーンが高くなってしまう。

「それが……」

石川さんは首を捻りながら、思い出すように言った。

「たしか、『オリンピック精神ね』みたいなことを言ってた」

オリンピック精神?とっさに意味が分からない。

なるほど。こういう突飛なことを言うから気味悪がられているのか。

ドアの方から「七瀬ぇ~」という声がして、その呼びかけに応えてから石川さんは、「じゃ、またね」と言って教室に戻っていった。

残された私は、しばらくその場で考え込んでいた。

『土』の形に並べられたカード。

自殺未遂をした島崎いずみと、その彼女が慕っていたという間崎京子。

そして、『オリンピック精神』という言葉。

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055 師匠シリーズ「天使3」

それぞれのパーツがバラバラに飛び回り考えがまとまらない。

休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、背中を押されるように自分の教室へ足を向ける。

席に戻ると、ヨーコが「どこ行ってたの」と囁いてくる。

「ん、ちょっと」と、別に隠す必要もない気がしたが、なんとなくはぐらかした。

自分でも気づかないうちに、この一連の出来事からなにか危険な匂いを感じ取っていたのかも知れない。

「奥!どこ見てる」という教師の声にヨーコは舌を出して、授業を受ける姿勢に戻った。

その現代国語の時間中、私はノートをとることも忘れて考えていた。

占いをするという間崎京子の所へ、クラスで肩身の狭い思いをしていた島崎いずみが行ってなにをしていたのか。

恐らく、自分の立場、居場所に関する悩み事の相談だろう。

そして、それを受けて間崎京子がしたことは、『土』の形にトランプのようなカードを並べること……

トランプではないのだ。トランプのような見た目で、かつ印刷されている内容が違うもの。

そして占いに使うとなればあれしかない。タロットカードだ。

そこまで考えて何故すぐに気づかなかったのかと、自分のバカさ加減を悔やんだ。

タロットカードは、質問に対し出たカードのパターンによって回答をする古典的な占いだ。

例外もあるが、大抵は22枚の大アルカナと呼ばれるカードのみか、もしくは、それに56枚の小アルカナと呼ばれるカードを加えた78枚のデックで行う。

そのデックから質問に対する回答のためにカードを選ぶ方法だが、これが様々あって、ある意味タロットカードの奥深さを表す醍醐味と言える。

その選び方のことを、カードを並べる展開法、『スプレッド』と言い、それぞれ並べる枚数も違えば、並べ方によるカードの意味も違ってくる。

そしてそのスプレッドのなかで、『土』の形と結びつくものがあった。

ケルト十字か………

オーソドックスなスプレッドで、10枚のカードを並べるのだが、最後まで並べると、『十|』という十字架の右隣に縦棒を置いたような形になるのだ。

それは時計回りに90度倒すと、そのまま『土』という漢字に見える。

私は授業が終わるとすぐに教室を出て、もう一度間崎京子の教室へ向かった。

タロットカードならば自分もよく知っている。そこからなにかヒントがつかめるのではないかと思ったのだ。

「石川さん」

昼休みのお弁当のために机を並び替えようとしていた石川さんは、驚いた顔でこちらを見た。

それでも迷惑そうなそぶりも見せずに、仲間たちを置いて教室から出てきてくれた。

「タロットカード」という言葉を出してもピンとこなかった彼女に、なんとかその時のことを思い出して欲しいと畳み掛ける。

「え~と、確か太陽のカードがあったかな。それからあとは、あれ、剣が刺さって倒れちゃってる人のカード。 う~ん、あとは覚えてない。そんなマジマジ見てたわけじゃないし」

剣が刺さった男?!

私は息をのんだ。

「それ、『土』のどの部分にあった?それからどっちの方向にむいてた?剣の柄は間崎さんから見てどっちだった?」

石川さんは暫く考えたあと、「確か……」と前置きしてから答えた。

「端っこだったから、『土』の最後の止めの部分かな。柄の向きはあんまり自信ないけど、私の方に向いてたと思うから、間崎さんから見たら、剣の先が正面になるのかな」

石川さんは「それがどうしたの」と、怪訝そうな顔で私を見つめる。

剣が刺さった男は、小アルカナの剣の10。

そして、間崎京子に切っ先が向いていたということは“正位置”。最悪のカードだ。

個人的には、『塔』の正位置よりも不吉な感じのするカードだった。

そして、『土』の止めの部分ということは、ケルト十字における『最終結果』を表すカード。

私は心臓が高鳴りはじめたのを感じていた。

剣の10が暗示するものは、『破滅』『決定的な敗北』『希望の喪失』『さらなる苦しみ』……

間崎京子はその最終結果を、島崎いずみに飾ることなく告げたのだろう。そして彼女は泣いた。

悩み事に対する答えとして、この仕打ちはあんまりだった。

それが良いとこ取りばかりをしない、占いのあるべき姿だとしても。

ましてそれが、島崎いずみ自身の運命だったとしても。

私は誰に向けるべきなのかも分からない波立つような怒りが、身の内に湧いて来るのを感じていた。

私の様子を不審げに見ていた石川さんが、「もう教室に戻るけど」と言うのを制して、「これが最後だから」と、『太陽』のカードの位置を聞いた。

「確か、真ん中のへん。ごめん、ホント忘れた。え?向き?太陽に向きなんてあるの?」

聞き出せたのはそこまでだった。

礼を言って、教室の前から立ち去る。

彼女はきっとこれから、昼ごはんを一緒に食べる仲間たちと私の噂話をするのだろう。

なんか、気持ち悪いよね。占いとかしてる人って。

石川さんも占いばかりしていた中学時代の私に、後ろ指をさしていた一人だったはずだ。

胸の中に渦巻く怒りと微かな棘の痛みが私の心を揺さぶり、平常な精神でいられなくした。

私は教室に戻らず、昼ごはんも食べないまま、校舎裏の秘密の場所で時間が過ぎるのを待った。

結局数行読んだだけで捨てたあのラブレターには、校内で見かけたという私の容姿のことばかり並んでいた。

差出人も、こんな私の本性を知れば出すのを止めただろうか。

煙草の吸殻が何本足元に落ちても誰も来なかった。風が遠くの喧騒を運んで来る。

すこしずつ身体の中に硬い殻が形成されるようなイメージ。誰も傷つけない。誰からも傷つけられない。

空は高かったけれど、まがい物のような青だった。

4日後。あの日早退して以来休んでいた高野志穂がようやく登校してきた。

青白い顔をして緊張気味に唇を固く引き結んだまま、誰とも挨拶を交わそうとしない。

気がついていなかっただけで、あるいは彼女はいつもそうだったのかも知れない。

周りのクラスメートたちは遠巻きに、そして腫れ物に触るように接していた。

彼女たちにとって島崎いずみと高野志穂は、区別のない同じ存在なのだろう。

島崎いずみはまだ学校に来ない。退院したという噂は聞いたが、今も家に閉じこもっているのだろうか。

学校はまったく自殺未遂のことに触れようとしない。

私たちがしている噂話を漏れ聞いていないはずはないのに。

あるいは、学校との関わりが確認されない限り、無視を決め込んでいるのかも知れない。

けれど私は、どうしてもこのままにはしておけなかった。高野志穂に話しかけたくてうずうずしていた。

その気持ちを見透かされたのか、ヨーコが眉を寄せて私を見る。

「ちょっとちひろ。なんか嗅ぎまわってるみたいだけど、やめときなよ。こんなことに関わらない方がいいよ」

面と向かってそう言われると、確かにそうだという良識が私の中で頷く。

この数日でかなりのことが分かっていた。

同じ中学で二人とも苛めを受けていたこと。

そして今の学校での、そしてクラスでの立場。これ以上何を知っても不快なだけだ。

私自身クラスで浮いている身であり、その私がなにか出来ることなどないし、なにより面倒くさい、どうでもいいという投げやりな気持ちの方が強かった。

休み時間にも俯いて机の上に広げたノートをじっと見ている高野志穂の姿に、好奇心以外の気持ちが湧かない自分に気づく。

彼女はしきりに顔の絆創膏を気にして触っている。このあいだよりまた増えていた。

その様子を見ていて、オリンピック精神という言葉が一瞬頭をよぎる。

これだけは意味が分からない。この一連の出来事にそぐわない響きだ。

間崎京子は一体なにを思ってそんなことを言ったのか。

あれから何度かあの教室を覗いたが、彼女はすでに早退した後か休みかのどちらかで結局会えなかった。

もともと休みがちだったというが、これはどういうことなのか。

透けるような色白で、スラリと伸びた細すぎる身体に、病弱そうな雰囲気は感じ取ったが……

ともあれ、オリンピック精神と聞けば、『参加することに意義がある』とかいう陳腐なフレーズしか浮かばない。

それが自殺未遂にどう繋がるのだろう。

高野志穂が在籍しているというバレー部となにか関係があるのだろうか。

そう言えば、島崎いずみの方はいわゆる帰宅部で、中学時代からなんのクラブ活動もしていなかったらしい。

毎日の放課後、バレー部の練習のために学校に残る高野志穂と別れ、寂しそうに一人で帰る姿をいつも目撃されている。

「オリンピック精神」

小さく口にしても、真実に迫るようなインスピレーションはなにも湧いてこない。

自殺未遂にはそぐわない健康的なイメージばかりが浮かんでは消える。

そう言えば、間崎京子はなにかクラブ活動をしているのだろうか。

そう思った時、横からヨーコに小突かれた。

「ちょっと、ちひろ。重症ね。もうそんなこと忘れてパーッといきましょう。今日、放課後、私と遊ぶ、OK?」

ヨーコはすっかりいつもの調子だった。

苦笑して頷いた。

背中に高野志穂の怯えたような視線を微かに感じながら。

「ねこがフェンスでふにゃふにゃふにゃ~」

というヨーコのでたらめな歌を聴きながら、空き地の金網のそばを歩く。

「トムキャットのフェンスって、良い曲だよ。でもカラオケに入ってないんだよね」

くるりと振り向いたかと思うとそう訴える。ヨーコはいつも唐突だ。

一緒にいると疲れることもあるが、いつも楽しげな彼女を見ているとこちらも元気づけられる。

「そうそう、最近オープンした、おしゃれな喫茶店が近くにあるんだけど、行かない?」

連れられるまま5分ほど歩くと、古着屋やレコードショップなど、カラフルな外観の店が立ち並ぶ通りに、目的の喫茶店が現れた。

さすがに真新しく、清潔感のある店先だ。

中高生などの若い女性客が多く入っているのが、ウインドウ越しに見てとれた。

店内に入ると、白を基調にした壁に可愛らしい天使の絵が一面に描かれている。

「おすすめケーキふたつ。あとアイスティーもふたつ」

と勝手に注文するヨーコを尻目に、私はなにか引っ掛かるものを店内から感じていた。

席について、いついつの情報誌にここが出ていたなどと語るヨーコの話にも上の空で、私は壁の絵ばかりを見ていた。

「あー、これなんか見たことある」

そう言ってヨーコは一つの絵を指さした。

椅子に腰掛けて両手を胸にあてる女性に、羽の生えた人物が何かを語りかけている。

処女であるはずのマリアに、天使が受胎を告知する聖書のワンシーンだ。

しかし、随分デフォルメされてしまっていて、子どもじみた絵になっている。

「ガブリエル」

私の言葉に、ヨーコが「え?」と聞き返す。

「この天使の名前」

ヨーコは感心した表情で、「天使に名前なんてあるんだ。みんな一緒かと思ってた」とつぶやく。

私は心臓が裂けそうにドキドキと脈打つのを感じていた。そして頭の中で言葉が鐘のように鳴る。

天使。

天使の名前。

そうだよ、ヨーコ。天使に名前はあるんだ。

私は椅子の足を鳴らせて、席を立った。

「どうしたの」と聞くヨーコを横目で見ながら、「ゴメン、急用思い出した。先帰る」と一方的に言って、おすすめケーキとアイスティーの代金をテーブルに置き、出口に向かう。

ヨーコの非難するような声が背中に届いたが無視した。

店を出た後、その足を町の図書館へと向ける。

嫌な予感がする。自分の記憶が間違っていてくれたらと思う。

けれどその30分後、広げた大きな事典の中にその名前を見つけた時、人気の無い静かな図書館の片隅で私は深い息をついた。

心臓が冷たい血を全身に送っている。そしてそれはぐるぐると巡り、もう一度心臓に還って来る。

すべてが繋がっていく。とても冷酷に。

バラバラだったパズルの欠片が、ひとつひとつと繋ぎ合わされ、見えつつある絵の向こうから、途方もなく暗い誰かの目が覗いていた。

怖い夢を見ていた気がする。

枕元の目覚まし時計を止め、身体をベッドから起こしながら思い出そうとする。

カーテンの隙間から射し込む光に目を細め、思い出そうとしたものを振り払う。

セーラー服に袖を通し、朝ごはんをかきこんで家を出た。

足がスイスイと前に出ない。気分が沈んだまま、いつもより時間をかけて学校にたどり着いた。

人でごった返す昇降口で靴箱から上履きを出していると、廊下の方に目が行った。

スラリとした長身。ショートカットの髪が耳元に揺れる。切れ長の涼しい目。透き通るような白い肌。

間崎京子だった。

(了)

 

江戸残酷物語 [ マーヴェリック ]

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