師匠シリーズ 026話~027話 葬祭・坂
2021/05/10
026 師匠シリーズ「葬祭」
大学二年の夏休みに、知り合いの田舎へついて行った。
「ぜひ一緒に来い」と言うのでそうしたのだが、電車とバスを乗り継いで八時間もかかったのにはうんざりした。
知り合いというのは大学で出会ったオカルト好きの先輩で、俺は師匠と呼んで畏敬したり小馬鹿にしたりしていた。
彼がニヤニヤしながら「来い」と言うのでは、行かないわけにはいかない。
結局怖いものが見たいのだった。
県境の山の中にある小さな村で標高が高く、夏だというのに肌寒さすら感じる。
垣根に囲まれた平屋の家に着くとおばさんが出てきて、「親戚だ」と紹介された。
師匠はニコニコしていたが、その家の人たちからは妙にギクシャクしたものを感じて居心地が悪かった。
あてがわれた一室に荷物を降ろすと、俺は師匠にそのあたりのことをさりげなく聞いてみた。
すると彼は、遠い親戚だから……というようなことを言っていたが、さらに問い詰めると白状した。
ほんとに遠かった。尻の座りが悪くなるほど。
遠い親戚でも、小さな子供が夏休みにやって来ると言えば、田舎の人は喜ぶのではないだろうか。
しかし、かつての子供はすでに大学生である。
ほとんど連絡も途絶えていた親戚の大人が、友達をつれてやって来て泊めてくれと言うのでは、向こうも気味が悪いだろう。
もちろん遠い血縁など、ここに居座るためのきっかけに過ぎない。
ようするに、怖いものが見たいだけなのだった。
非常に非常に肩身の狭い思いをしながら、俺はその家での生活を送っていた。
家にいてもすることがないので、たいてい近くの沢に行ったり山道を散策したりして、とにかく時間をつぶした。
師匠はというと、持って来ていた荷物の中の大学ノートとにらめっこしていたかと思うとふらっと出て行って、近所の家をいきなり訪ねては、その家のお年寄りたちと何事か話し込んでいたりした。
俺は師匠のやり口を承知していたから、何も言わずただ待っていた。
二人いるその家の子供とまだ一言も会話をしてないことを自嘲気味に考えていた六日目の夜。ようやく師匠が口を開いた。
「わかったわかった。ほんとうるさいなあ、もう教えるって」
6畳間の部屋の襖を閉めて布団の上に胡坐をかくと、声をひそめた。
「墓地埋葬法を知っているか」と言う。
「ようするに、土葬や鳥葬、風葬など土着の葬祭から、政府が管理する火葬へとシフトさせるための法律だ」
と師匠は言った。
「人の死を、習俗からとりあげたんだ。この数日山をうろうろして、墓がわりと新しいものばかりなのに気がついたか?」と問われた。
気がつかなかった。確かに墓地は見はしたが……
「このあたりの集落は、かつて一風変わった葬祭が行われていたらしい」
もちろん知っていてやって来たのだろう。
その上で何かを確認しに来たのだ。
ドキドキした。聞いたら後戻りできなくなる気がして。
家は寝静まっている。
豆電球のかすかな明かりの中で師匠が言った。
「死人が出ると荼毘に付して、その灰を畑に撒いたらしい。酸化した土を中和させる知恵だね。ところが変なのは、そのこと自体じゃない。江戸中期までは、死者を埋葬する習慣自体が一般的じゃなかった。死体は『捨てる』ものだったんだよ」
寒さが増したようだ。夏なのに。
「この集落で死体を灰にして、畑にあっさりに撒けたのには、さらに理由がある。死体をその人の本体、魂の座だと認めていなかったんだ。本体はちゃんと弔っている。死体から抜き出して」
『抜き出す』という単語の意味が一瞬分からなかった。
「この集落では葬儀組みのような制度はなく、葬祭を取り仕切るのは、代々伝わる呪術師、シャーマンの家だったらしい。キと呼ばれていたみたいだ。死人が出ると彼らは死体を預かり、やがて『本体』を抜かれた死体が返され、親族はそれを燃やして、自分たちの畑に撒く。抜かれた『本体』は木箱に入れられて、キが管理する石の下にまとめて埋められた。いわばこれが墓石で、祖霊に対する弔意や穢れ払いは、この石に向けられたわけ。彼らはこの『本体』のことを、オンミと呼んでいたみたい。年寄りがこの言葉を口にしたがらないから、聞き出すのが大変だった」
師匠がこんな山の上へ来た理由がわかった。
その木箱の中身を見たいのだ。
そういう人だった。
「この習慣は、山を少し下った隣の集落にはなかった。近くに浄土宗の寺があり、その檀徒だったからだ。寺が出来る前は、となったらわからないけど、どうやらこの集落単独で、ひっそりと続いてきた習慣みたいだ。その習慣も、墓地埋葬法に先駆けて明治期に終わっている。だからこの集落の墓はすべて明治以降のものだし、ほとんどは大正昭和に入ってからのものじゃないかな」
その日はそのまま寝た。
その夜、生きたまま木棺に入れられる夢を見た。
次の日の朝。その家の家族と飯を食っていると、そろそろ帰らないかというようなことを暗にいわれた。
帰らないんですよ、箱の中を見るまでは。と心の中で思いながら、味のしない飯をかき込んだ。
その日はなんだか薄気味が悪くて、山には行かなかった。近くの川でひとり日がな、一日ぼうっとしていた。
『僕はその木箱の中に何が入っているのか、そのことよりも、この集落の昔の人々が、人間の本体をいったい何だと考えていたのか、それが知りたい』
俺は知りたくない。でも想像はつく。あとは、どこの臓器かという違いだけだ。
俺は腹の辺りを押さえたまま、川原の石に腰掛けて水をはねた。
村に侵入した異物を子供たちが遠くから見ていた。
あの子たちは、そんな習慣があったことも知らないだろう。
その夜。丑三つ時に、師匠が声を顰め「行くぞ」と言った。
川を越えて暗闇の中を進んだ。
向かった先は寺だった。
「例の浄土宗の寺だよ。どう攻勢をかけたのか知らないが、明治期にくだんの怪しげな土着信仰を廃して、壇徒に加えることに成功したんだ。だから今は、あのあたりはみんな仏式」
息をひそめて山門をくぐった。
帰りたかった。
「そのあと、葬祭をとりしきっていたキの一族は、血筋も絶えて今は残っていない。ということになってるけど、恐らく迫害があっただろうね。というわけで、くだんの木箱だけど、どうも処分されてはいないようだ。宗旨の違う埋葬物だけど、あっさりと廃棄するほどには、浄土宗は心が狭くなかった。ただそのままにもしておけないので、当時の住職が引き取り、寺の地下の蔵にとりあえず置いていたようだが、どうするか決まらないまま代が変わり、いつのまにやら文字どおり死蔵されてしまって今に至る、というわけ」
よくも調べたものだと思った。
地所に明かりがともっていないことを確認しながら、小さなペンライトでそろそろと進んだ。
小さな本堂の黒々とした影を横目で見ながら、俺は心臓がバクバクしていた。
どう考えても、まともな方法で木箱を見に来た感じじゃない。
「僕の専攻は仏教美術だから、そのあたりから攻めて、ここの住職と仲良くなって鍵を借りたんだ」
そんなワケない。寝静まってから泥棒のようにやって来る理由がない。
「そこだ」と師匠が言った。
本堂のそばに厠のような屋根があり、下に鉄の錠前がついた扉があった。
「伏蔵だよ」
どうも木箱の中身については、当時から庶民は知らなかったらしい。知ることは禁忌だったようだ。
「そこが奇妙だ」と師匠は言う。
その人をその人たらしめるインテグラルな部分があるとして、それが何なのか知りもせずに手を合わせてまた畏れるというのは、やはり変な気がする。
それが何なのか知っているとしたら、それを『抜いた』というシャーマンと、あるいは木箱を石の下から掘り出して、伏蔵に収めた当時の住職もか……
師匠がごそごそと扉をいじり、音を立てないように開けた。
饐えた匂いがする地下への階段を、二人で静かに降りていった。
降りていくときに、階段がいつまでも尽きない感覚に襲われた。
実際は地下一階分なのだろうが、もっと長く果てしなく降りたような気がした。
「もともとは、本山から頂戴したなけなしの経典を納めていたようだが、今はその主人を変えている」
と師匠は言った。
「異教の穢れを納めているんだよ」と言うささやくような声に一瞬気が遠くなった。
高山に近い土地柄に加え、真夜中の地下室である。まるで冬の寒さだった。
俺は薄着の肩を抱きながら、師匠のあとにビクビクしながら続いた。
ペンライトでは暗すぎてよく分からないが、思ったより奥行きがある。
壁の両脇に棚が何段にもあり、主に書物や仏具が並べられていた。
『それ』は一番奥にあった。
「ひひひ」という声が、どこからともなく聞こえた。
まさかと思ったが、やはり師匠の口から出たのだろうか。
厚手の布と青いシートで2重になっている小山が、奥の壁際にある。
やっぱりやめようと師匠の袖をつかんだつもりだったが、なぜか手は空を切った。
手は肩に乗ったまま動いていなかった。
師匠はゆっくりと近づき、布とシートをめくりあげた。
木箱が出てきた。大きい。
正直言って、小さな木箱から小さな肝臓の干物のようなものが出てくることを想像していた。
しかし、ここにある箱は少なかった。三十はないだろう。
その分、一つ一つが抱えなければならないほど大きい。
嫌な予感がした。
木箱の腐食が進んでいるようだった。
石の下に埋められていたのだから、掘り出した時に箱のていを成していないものは、処分してしまったのかも知れない。
師匠がその内の一つを手にとって、ライトをかざした。
それを見た瞬間、明らかに今までと違う鳥肌が立った。
ぞんざいな置かれ方をしていたのに、木箱は全面に墨書きの経文でびっしりと覆われていたからだ。
「如是我聞一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園與大比丘衆千二百五十人倶……」
師匠がそれを読んでいる。
やめてくれ。起きてしまう。
そう思った。
ペンライトの微かな明かりの下で、師匠が嬉しそうな顔をして指に唾をつけ、箱の口の経文をこすり落とした。
他に封印はない。
ゆっくりと蓋をあげた。
俺は怖いというか心臓のあたりが冷たくなって、そっちを見られなかった。
「う」というくぐもった音がして、思わず振り向くと、師匠が箱を覗き込んだまま口をおさえていた。
俺は気がつくと出口へ駆け出していた。
明かりがないので何度も転んだ。それでももうそこに居たくなかった。
階段を這い登りわずかな月明かりの下に出ると、山門のあたりまで戻り、そこでうずくまっていた。
どれくらい経っただろうか。
師匠が傍らに立っていて、青白い顔で「帰ろう」と言った。
結局次の日、俺たちは一週間お世話になった家を辞した。
またいらしてね、とは言われなかった。
もう来ない。来るわけがない。
帰りの電車でも俺は聞かなかった。木箱の中身のことを。
この土地にいる間は聞いてはいけない、そんな気がした。
夏休みも終わりかけたある日に、俺は奇形の人を立て続けに見た。
そのことを師匠に話した折りに、奇形からの連想だろうか、
「そういえばあの木箱は……」と口走ってしまった。
「ああ、あれね」
あっさり師匠は言った。
「木箱で埋められてたはずだからまずないだろう、と思ってたものが出てきたのには、さすがにキタよ」
胡坐をかいて眉間に皺をよせている。
俺は心の準備が出来てなかったが、かまわず師匠は続けた。
「屍蝋化した嬰児がくずれかけたもの、それが中身。かつて埋められていたところを見たけど、泥地でもないし、さらに木箱に入っていたものが、屍蝋化してるとは思わなかった。もっとも、屍蝋化していたのは、二十六体のうち三体だったけど」
嬰児?俺は混乱した。
グロテスクな答えだった。そのものではなく話の筋がだ。
死人の体から抜き出したもののはずだったから。
「もちろん、産死した妊婦限定の葬祭じゃない。あの土地の葬儀のすべてがそうなっていたはずなんだ。これについては、僕もはっきりした答えが出せない。ただ、間引きと姥捨てが同時に行われていたのではないか、という推測は出来る」
間引きも姥捨ても今の日本にはない。想像もつかないほど貧しい時代の遺物だ。
「死体から抜き出したというのはウソで、こっそり間引きたい赤ん坊を、家族が差し出していたと……?」
じゃあやはり、当時の土地の庶民も知っていたはずだ。
しかし言えないだろう。
木箱の中身を知らない、という形式をとること自体が、この葬祭を行う意味そのものだからだ。
ところが、違う違うとばかりに師匠は首を振った。
「順序が違う。あの箱の中には、すべて生まれたばかりの赤ん坊が入っていた。年寄りが死んだときに、都合よく望まれない赤子が生まれて来るってのは変だと思わないか。逆なんだよ。望まれない赤子が生まれて来たから、年寄りが死んだんだよ」
婉曲な表現をしていたが、ようするに積極的な姥捨てなのだった。
嫌な感じだ。やはりグロテスクだった。
「この二つの葬儀を、同時に行なわなければならない理由はよくわからない。ただ、来し方の口を減らすからには、行く末の口も減らさなくてはならない、そんな道理があそこにはあったような気がする」
どうして死体となった年寄りの体から、それが出てきたような形をとるのか、それはわからない。
ただただ、深い土着の習俗の闇を覗いている気がした。
「そうそう、その葬祭をつかさどっていたキの一族だけどね、まるで完全に血筋が絶えてしまったような言い方をしちゃったけど、そうじゃないんだ。最後の当主が死んだあと、その娘の一人が集落の一戸に嫁いでいる」
そう言う師匠は、今までに何度もみせた『人間の闇』に触れた時のような、得体の知れない喜びを顔に浮かべた。
「それがあの、僕らが逗留したあの家だよ。つまり……」
『僕の中にも』
そう言うように師匠は自分の胸を指差した。
027 師匠シリーズ「坂」
大学一回生の夏。
『四次元坂』という、地元ではわりと有名な心霊スポットに挑んだ。
曰く、夜にその坂でギアをニュートラルに入れると、車が坂道を登って行くというのだ。
その噂を聞いて僕は俄然興奮した。
いたのやらいなかったのやら分からないようなお化けスポットとは違う。
車が動くというのだから、なんだか凄いことのような気がするのだ。
とはいえ一人では怖いので、二人の先輩を誘った。
夜の一時。
僕は人影のない最寄の駅の前でぼーっと立っていた。
隣には僕が師匠と仰ぐオカルトマニアの変人。やはりぼーっと立っている。
いつもなら僕がそんな話を持って行くと、即断即決で『じゃあ行こう』ということになる人なのだが、その時は肝心の車がなかった。
師匠の愛車のボロ軽四は、原因不明の煙が出たとかで修理に出していたのだった。
僕は免許さえ持っていない。
そこで車を出せる人をもう一人誘ったのだが、ある意味で四次元坂よりも楽しみな部分がそこにあった。
闇を裂いてブルーのインプレッサが駅前に止まる。
颯爽と降りてきた人はこちらに手を振りかけてすぐに降ろした。
「なんでこいつがいるんだ」
京介さんという僕のオカルト系のネット仲間だ。
「こっちの台詞だ」
師匠がやりかえしてすぐに険悪な空気に包まれる。
「まあまあ」と取り成す僕に師匠が、「どうしてお前はいつも、俺とこいつが一緒になるように仕向けるんだ」というようなことを言った。
面白いからですよ。とはなかなか言えないので、かわりに「まあまあ」と言った。
師匠と京介さんは仲が悪い。強烈に悪い。
それは初対面のときに京介さんが師匠に向かって、「なんだこのインチキ野郎は」と言ったことに端を発する。
お互い多少系統は違えど、オカルトフリークとしては人後に落ちない自負があるらしい。
いわば磁石のS極とS極だ。反発するのは仕方のないことかも知れない。
「まあまあ、四次元坂の途中には同じくらいの激ヤバスポットもありますし、とりあえず楽しんで行きましょう」
なんとか二人をなだめすかして車に押し込める。
当然師匠は後部座席で、僕は助手席だった。
「狭い」
師匠の一言に京介さんが「黙れ」と言う。
「くさい」と言ったときは、車を停めてあわや乱闘というところまで行った。
やっぱりセットで呼んでよかった。最高だ。この二人は。
そんな気分をぶっこわすようなものがいきなり視界に入ってきた。
対向車もいない真夜中の山中で、川沿いの道路の端に巨大な地蔵が浮かび上がったのだった。
比較物のない夜のためか異常に大きく見える。体感で5メートル。
「あれが見返り地蔵ですよ」
車で通り過ぎてから振り返ると、側面のはずの地蔵がこっちを向いていて、それと目が合うと必ず事故に遭う、といういわくがある。
二人が喜びそうな話だ。
喜びそうな話なのに、二人とも何も言わず、振り返りもしなかった。
ゾクゾクする。怖さのような、嬉しさのような、不思議な笑いがこみ上げてきた。
振り返れないから、僕のイメージの中でだけ道端の地蔵は遠ざかり、曲がりくねる闇の中に消えていった。
もちろんそのイメージの中ではこちらを向いていた。無表情に。
師匠も京介さんも押し黙ったまま車は夜道を進んだ。
イライラしたように京介さんはハンドルを指で叩く。
やがて道が二手に分かれる場所に出た。
「左です」という僕の声に、ウインカーも出さずにハンドルが切られる。
左に折れるとすぐに上り坂が始まった。
「どこ」
「ええと、たしかもうこの辺りからそのはずですが」
あくまで噂では。
京介さんは車を停止させると、ギアをニュートラルに入れた。
……
ドキドキするのも一瞬。じりじりと車は後退した。
京介さんはため息をついてブレーキを踏んだ。
「あー、ちょっと楽しみだったんだけどなぁ」
僕も残念だ。
たしかに、本気でそんな坂があるなんて信じていたかと言われれば否だが。
すると師匠が「ライト消して」と言いながら車を降りた。手には懐中電灯。
三人とも車を降りると、周囲になんの明かりもない山道に突っ立った。
「まあ多分こういうことだな」と、師匠はぼそぼそと話しはじめた。
この山中の坂道はゆるやかな上り坂になっているわけだが、道の先を見ると路側帯の白線が微妙に曲がり、おそらく幅が途中から変わっているようだ。
それが遠近感を狂わせて、上り坂を下り坂に錯覚させるのではないか。
周囲に傾斜を示すような比較物が少ない闇夜に、かすかな明かりに照らされて浮かび上がった白線だけを見ていると、そんな感覚に陥るのだろう。
師匠の言葉を聞くと不思議なことに、さっきまで上り坂だった道が、下向きの傾斜へと変化していくような気がするのだった。
「つまり、ハイビームでここを登ろうとする無粋なことをしなければ、もう少し楽しめたんじゃない?」
師匠の挑発に京介さんが鼻で笑う。
「あっそ。じゃあここで置いていくから、存分に錯覚を楽しんだら」
「言うねえ。四次元坂なんて信じちゃうかわいいオトナが」
虫の声が遠くから聞こえるだけの静かな道に、二人の罵りあう声だけが響く。
しかし、京介さんの次の言葉でその情景が一変した。
「どうでもいいけど、おまえ、後ろ振り向かないほうがいいよ。地蔵が来てるから」
零下100度の水をいきなり心臓に浴びせられたようなショックに襲われた。
京介さんの子供じみた脅かしにではない。
その脅しを聞いた瞬間に、師匠が凄まじい形相で自分の背後を振り返ったからだ。
驚愕でも恐怖でもない。なにかひどく温度の低い感情が張り付いたような表情で。
しかしもちろん、そこには闇が広がっているだけだった。
その様子を見た京介さんも息をのんで、用意していた嘲笑も固まった。
おいおい。笑うところだろ。騙された人を笑うところだろ。
そう思いながらも、夜気が針のように痛い。
「すまん」と京介さんが謝り、なんとも後味悪く三人は車に戻った。
師匠は後部座席に沈み込み、一言も口を利かなかった。
そして僕らはくだんの地蔵の前を通ることもなく、県道を大回りして帰途に着いたのだった。
師匠を駅前で降ろして、僕を送り届ける時に京介さんは頭を掻きながら、
「どうして謝っちまったんだ」と吐き捨てて、とんでもないスピードでインプレッサを吹っ飛ばし、僕はその日一番の恐怖を味わったのだった。
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