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【岡本綺堂傑作選】雷見舞(らいみまい) 三浦老人昔話より

      2017/09/16

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【岡本綺堂】雷見舞(らいみまい) 三浦老人昔話より

六月の末であった。

梅雨の晴間をみて、二月ぶりで大久保をたずねると、途中から空の色がまた怪しくなって、わたしが向ってゆく甲州の方角から意地わるくごろ/\云う音がきこえ出した。

どうしようかと少し躊躇したが、大したこともあるまいと多寡をくゝって、そのまゝに踏み出すと、大久保の停車場についた頃から夕立めいた大粒の雨がざっとふり出して、甲州の雷はもう東京へ乗込んだらしく、わたしの頭のうえで鳴りはじめた。

傘は用意して来たが、この大雨を衝いて出るほどの勇気もないので、わたしは停車場の構内でしばらく雨やどりをすることにした。

そのころの構内は狭いので、わたしと同じような雨やどりが押合っているばかりか、往来の人たちまでが屋根の下へどや/\と駈け込んで来たので、ぬれた傘と湿ぬれた袖とが摺れ合うように混雑していた。

わたしの額には汗がにじんで来た。わたしのそばには老女が立っていた。

老女はもう六十を越えているらしいが、あたまには小さい丸髷をのせて、身なりも貧しくない、色のすぐれて白い、上品な婦人であった。

かれはわたしと肩をこすり合うようにして立っているので、なんとも無しに一種の挨拶をした。

「どうも悪いお天気でございますね」

「そうです。急にふり出して困ります」と、わたしも云った。

「きょう一日はどうにか持つだろうと思っていましたのに……」

こんなことを云っているうちにも、雷らいはかなりに強く鳴って通った。

その一つは近所へ落ちたらしかった。

老女は白い顔を真蒼にそめ換えて、殆どわたしのからだへ倒れかゝるように倚よりかゝって眼をとじていた。

雷の嫌いな女、それはめずらしくもないので、わたしはたゞ気の毒に思ったばかりであった。

実はわたし自身もあまり雷は好きでないので、いゝ加減に通り過ぎてくれゝばいゝと内心ひそかに祈っていると、雨は幸いに三十分を過ぎないうちに小降りになって、雷の音もだん/\に東の空へ遠ざかったので、気の早い人達はそろ/\動きはじめた。

わたしもやがて空をみながら歩き出すと、老女もつゞいて出て来た。

かれも小さい洋傘こうもりを持っていた。

構外へ出ると、雲の剥げた隙間から青い空の色がところ/″\に洩れて、路ばたの草の露も明るく光っていた。

わたしも他の人達とあとや先になって、雨あがりの路をたどってゆくと、一台の人車くるまがわたしたちを乗り越して通り過ぎた。

雨ももう止んで、その車には幌がおろしてなかったので、車上の人が彼の老女であることはすぐに判った。

老女はわたしに黙礼をして通った。

三浦老人の家うちは往来筋にあたっていないので、その横町へまがる時には、もう私と一緒にあるいている人はなかった。

往来が少いだけに、横町は殊に路が悪かった。

そのぬかるみを注意して飛び渡りながら、ふと向うをみると、丁度彼の家の門前から一台の空車が引返して来るところであった。

客はもう門をくゞってしまったので、そのうしろ姿もみえなかったが、車夫の顔には見おぼえがあった。

かれは彼の老女をのせて来た者に相違なかった。

あの女も三浦老人の家へ来たのか。

わたしは鳥渡ちょっと不思議なようにも感じた。

停車場で一緒に雨やどりをして、たとい一言でも挨拶した女が、やはり同じ家をたずねてゆく人であろうとは思わなかった。

勿論そんな偶然はあり勝のことではあろうが、この場合、かれと我とのあいだに何か一種の糸が繋がってゞもいるように思われないこともなかった。

かれはどういう人であろうかと、私はあるきながら想像した。

かれは老人の親戚であろうか、知人の細君か未亡人であろうか。

それとも――老人がむかしの恋人ではあるまいか――斯うかんがえて来たときに、わたしは思わず微笑して自分の空想を嘲あざけった。

いずれにしても、来客のあるところへ押掛けてゆくのは良くない。

いっそ引返そうかとも思ったが、雨にふり籠められ、雷らいにおびやかされ、ぬかるみを辿ってこゝまで来たことを考えると、このまゝ空しく帰る気にもなれなかったので、わたしは邪魔をするのを承知の上で、思い切ってそのあとから門をくゞることにした。

雨もやみ、傘を持っているにも拘らず、停車場から僅かの路を人車くるまに乗ってくるようでは、かの老女もあまり生活に困らない人であろうなどと、わたしは又想像した。

門を這入って案内を求めると、おなじみの老婢ばあやが出て来た。

いつもは笑って私を迎える彼女が、きょうは少し迷惑そうな顔をして、その返事に躊躇しているようにもみえるので、わたしは今更に後悔して、やはり門前から引返せばよかったと思ったが、もう何うすることも出来ないので、奥へ取次ぎにゆく彼女のうしろ姿を気の毒のような心持で見送っていると、やがて彼女かれは再び出て来て、いつもの通りにわたしを案内した。

「御用のお客様じゃないのでしょうか。お邪魔のようならば又うかゞいますが……」と、わたしは遅まきながら云った。

「いいえ、よろしいそうでございます。どうぞ」と、老婢は先に立って行った。

いつもの座敷には、あるじの老人と客の老女とが向い合っていた。

老女はわたしの顔をみて、これも一種の不思議を感じたように挨拶した。

停車場で出逢った話をきいて、三浦老人も笑い出した。

「はゝあ、それは不思議な御縁でしたね。むかしから雨宿りなぞというものは色々の縁をひくものですよ。人情本なんぞにもよくそんな筋があるじゃありませんか」

「それでもこんなお婆さんではねえ」

老女は声をあげて笑った。

年にも似合わない華やかな声がわたしの注意をひいた。

「先刻さっきはまことに失礼をいたしました」と、女はかさねて云った。

「わたくしはかみなり様が大嫌いで、ごろ/\と云うとすぐに顔の色が変りますくらいで、若いときには夏の来るのが苦になりました。

それに、当節とちがいまして、昔はかみなり様が随分はげしく鳴りましたから、まったく半病人で暮す日がたび/\ございました」

「ほんとうにお前さんの雷らい嫌いは格別だ」と、三浦老人も笑った。

「なにしろ、それがために侍ひとりを玉無しにしたんだからね」

「あゝ、もうその話は止しましょうよ」と、女は顔をしかめて手を振った。

「まあ、いゝさ」と、老人はやはり笑っていた。

「こちらはそういう話が大変にお好きで、麹町からわざ/\この大久保まで、時代遅れのじいさんの昔話を聴きにおいでなさるのだ。

おまえさんも罪ほろぼしに一つお聞かせ申したら何うだね」

「是非聴かして頂きたいものですね」と、わたしも云った。

この老女の口から何かのむかし話を聞き出すということが、一層わたしの興味を惹いたからであった。

「だって、あなた。

別に面白いお話でもなんでも無いんですから」と、女は迷惑そうに顔をしかめながら笑っていた。

「どうしても聴かして下さるわけには行かないんでしょうか」と、私も笑いながら催促した。

「困りましたね。まったく詰まらないお話なんですから」

「詰まらなくてもようござんすから」

「だって、いけませんよ。ねえ、三浦さん」と、かれは救いを求めるように老人の顔をみた。

「そう押合っていては果てしがない」と、老人は笑いながら仲裁顔に云った。

「じゃあ、一旦云い出したのが私の不祥で、今更何うにも仕様がないから、わたしが代理で例のおしゃべりをすることにしましょうよ。
おまえさんも係り合だから、おとなしくこゝに坐っていて、わたしの話の間違っているところがあったら、一々そばから直してください、逃げてはいけませんよ」

いよ/\迷惑そうな顔をしている女をそこに坐らせて置いて、老人はいつもの滑らかな調子で話しはじめた。

どこかに迷惑がる人がいますから、店の名だけは堪忍してやりますが、場所は吉原で、花魁おいらんの名は諸越もろこしとおぼえていて下さい。

安政の末年のことで、その諸越のところへ奥州のある大名――と云っても、例の仙台様ではありません。

もっと江戸に近いところの大名が通っていたのです。

仙台や尾張や、それから高尾をうけ出した榊原などは、むかしから有名になっていますが、まだその外にも廓通いをした大小名は沢山あります。

しかも遠い昔ばかりでなく、文化、文政から天保以後になっても、廓へ入込んだ殿様は幾らもありましたから、敢てめずらしいことでもないのですが、その諸越という女がおそろしく雷を嫌ったということがお話の種になるのです。

そのつもりでお聴きください。

その大名は吹けば飛ぶような木葉こっぱ大名でなく、立派に大名の資格を具えている家柄の殿様でしたが、それがしきりに諸越のところへ通ってゆく。

勿論、大名のお忍びですから、頻りにと云ったところで、月に二三度ぐらいのことでしたが、それでも殿様は大執心で、相方あいかたの女に取っても、その店に取っても、大変にいゝお客様であったのです。

諸越が雷を嫌うということは、殿様もよく知っている。

そこで、雷が鳴ると、その屋敷から諸越のところへ御見舞の使者が来ることになっていました。

随分ばか/\しいようなお話で、今日の人たちは嘘のように思うかも知れませんが、これは擬まがいなしの実録です。

勿論小さい雷ならば構わないでしょうが、少し強い雷が鳴り出すと、屋敷の侍が早駕籠に乗ってよし原へ駈けつけて、お見舞の菓子折か何かをうや/\しく花魁に献上するというわけです。

いかに主命でも、兎もかくも一人の武士が花魁のところへ雷らい見舞にゆくと云うのですから、重々難儀の役廻りで、相当の年配のものは御免を蒙って引き下りますから、この役目はいつも若侍がうけたまわることになっていました。

ところで、その年の夏は先ず無事に済んでいたのですが、どういう陽気の加減か、その年は十月の末に颶風はやてのような風がふき出して、石ころのような大きい雹が雨まじりに降る。

それと一緒にひどい雷が一時ときあまりも鳴りひゞいたので、江戸中の者もびっくりしました。

この屋敷でもおどろきました。

もう大丈夫と油断していると、この大雷が不意に鳴り出したのです。

殊に時ならぬ雷というのですから、猶さらお見舞を怠ってはならぬと、殿さまの御指図を待つまでもなく、屋敷からは倉田大次郎という若侍を走らせて、諸越花魁の御機嫌を伺わせることにしました。

大次郎はすぐに支度をして、さすがに裃かみしもは着ませんけれども、紋付の羽織袴というこしらえで、干菓子の大きい折をさゝげて、駕籠をよし原へ飛ばさせました。

大次郎は今年二十二で、ふだんから殿さまのお供をして吉原へゆく者ですから、廓内の勝手はよく心得ています。

たゞ困ったことには、この人も雷嫌いで、稲妻がぴかりと光ると、あわてゝ眼をつぶるという質ですから、雷見舞のお使にはいつも相役の村上という男をたのんでいたのですが、きょうは生憎にその村上が下屋敷の方へ行って、屋敷に居あわせない。

今日とちがいますから、電話をかけて急に呼び戻すというわけには行かないので、よんどころなく自分が引受けて出ることになりました。

大次郎も侍ですから、雷が怖いと云って役目を辞退することは出来ません。

風が吹く、雨がふる、雹が降る、雷が鳴る、実にさん/″\な天気の真最中に、大次郎は駕籠でのり出しました。

本人に取っては、羅生門に向う渡辺綱よりも大役でした。

屋敷を出たのは、夕七つ(午後四時)少し前で、雨風はまだやまない。

とき/″\に大きい稲妻が飛んで、大地もゆれるような雷がなりはためく。

駕籠のなかにいる大次郎はもう生きている心地もないくらいで、眼をふさぎ、耳をふさいで、おそらく口のうちでお念仏でも唱えていたことでしょう。

本人の雷ぎらいと云うことは、屋敷でも大抵知っていたでしょうが、場所が場所だけに無暗の者を遣るわけには行かなかったのかも知れません。

いずれにしても、雷ぎらいの人間を雷見舞に遣ろうというのですから、躄いざりを火事見舞に遣るようなもので、どうも無理な話です。

その無理からこゝに一つの事件が出来しゅったいしたのは、まことによんどころないことでした。

浅草へかゝって、馬道の中ほどまで来ると、雷は又ひとしきり強くなって、なんでも近所へ一二ヵ所も落ちたらしい。

雹はやんだが、雨風が烈しいので、駕籠屋も思うように駈けられない。

駕籠のなかでは大次郎がふるえ声を出して、早く遣れ、早くやれと急きたてます。

いくら急かれても、駕籠屋はいそぐわけには行かない。

そのうちに大きい稲妻が又ひかる。

大次郎はもう堪らなくなって、一生懸命に怒鳴りました。

「どこでもいゝから、そこらの家うちへ着けてくれ」

どこでもと云っても、まさか米屋や質屋へかつぎ込むわけにも行かないので、駕籠屋はそこらを見まわすと、五六軒さきに小料理屋の行燈がみえる。

駕籠屋は兎もかくもその門口へおろすと、大次郎は待ちかねたように転げ出して、その二階へ駈けあがりました。

駕籠に乗った侍が飛び込んで来たのですから、そこの家でも疎略にはあつかいません。

女中共もすぐに出て来て、お世辞たら/\で御注文をうけたまわろうとしても、客は真蒼になって座敷のまん中に俯伏していて、しばらくは何にも云いません。

急病人かと思って一旦はおどろいたが、雷が怖いので逃げ込んで来たということが判って、家でも気をきかして時候はずれの蚊帳を吊ってくれる。

線香を焚いてくれる。

これで大次郎もすこし人ごこちが付きました。

そのうちに雷の方もすこし収まって来たので、大次郎もいよ/\ほっとしていると、わかい女中が酒や肴を運んで来ました。

なにを誂えたのか、誂えないのか、大次郎も夢中でよく覚えていませんが、こういう家の二階へあがった以上、そのまゝに帰られないくらいのことは心得ていますから、大次郎は別になんにも云わないで、その酒や肴を蚊帳のなかへ運ばせました。

「あなた。虫おさえに一口召上れよ」

女中も蚊帳のなかへ這入って来ました。

大次郎も飲める口ですし、まったく虫おさえに一杯飲むのもいゝと思ったので、その女の酌で飲みはじめました。

吉原の酒の味も知っている人ですから、まんざらの野暮ではありません。

その女にも祝儀を遣って、冗談の一つ二つも云っているうちに、雨風もだん/\に静まって雷の音も遠くなりましたから、大次郎はいよ/\元気がよくなりました。

相手も鳥渡ちょっと踏めるような御面相の女で、頻りにちやほやと御世辞をいう。

それに釣り込まれて飲んでいるうちに、大次郎もよほど酔がまわって来ました。

しかし生酔本性違わずで、雷見舞の役目のことが胸にありますから、大次郎もあまり落ちついて御神輿おみこしを据えているわけには行きません。

好い加減に切りあげて帰ろうとすると、女はなんとか彼とか云って頻りにひき止めました。

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大次郎は悪い家へ這入ったので、こゝの家の表看板は料理屋ですが内実は淫売屋じごくやでした。

江戸時代に夜鷹は黙許されていましたが、淫売じごくはやかましい。

とき/″\お手が這入って処分をうけるのですが、やはり今日とおなじことで狩り尽せるものではありません。

大次郎は無論にそんな家うちとは知らないで、夢中で飛び込んだのです。

駕籠屋もおそらく知らないで普通の小料理屋と思って担ぎ込んだのでしょうが、家には首の白いのが四五人も屯していて、盛に風紀をみだしている。

そこへ身綺麗な若い侍が飛び込んで来たので、向うでは好いい鳥ござんなれと手ぐすね引いて持ちかけると云うわけです。

大次郎はふり切って帰ろうとする。

女は無理にひきとめる。

それがだん/\露骨になって来たので、大次郎も気がついて、あゝ飛んだところへ引っかかったと思ったが、今更どうすることも出来ない。

あやまるようにして勘定をすませて、さて帰ろうとすると、自分の大小がみえない。

「これ、おれの大小をどうした」

「存じませんよ」と、女は澄ましていました。

「存じないことはない。探してくれ」

「でも、存じませんもの。あなた、お屋敷へお忘れになったのじゃありませんか」

「馬鹿をいえ。侍が丸腰で屋敷を出られるか。たしかに何処かにあるに相違ない。早く出してくれ」

女は年こそ若いが、なか/\人を食った奴で、こっちが焦れるほどいよ/\落ちつき払って、平気にかまえているのです。

小面こづらが憎いと思うけれど、こゝで喧嘩も出来ない。

淫売屋というなかにも、こゝの家はよほど風ふうのわるい家で、大次郎の足どめに大小を隠してしまったらしい。

いよ/\憎い奴だと思うものゝ、こゝへ飛び込んで来たときは半分夢中であったので、いつ何うして大小を取りあげられたのか些ちっとも覚えがない。

こうなると水かけ論で、いつまで押問答をしていても果てしが付かないことになるので、大次郎も困りました。

勿論、たしかに隠してあるに相違ないのですから、表向きにすれば取返す方法がないことはない。

町内の自身番へ行って、その次第をとゞけて出れば、こゝの家の者どもは詮議をうけなければならない。

武士が大小をさゝずに来たなどというのは、常識から考えても有りそうもないことですから、こゝの家で隠したと云う疑いはすぐにかゝる。

まして隠し売女を置いているということまでが露顕しては大変ですから、こゝで大次郎が
「自身番へゆく」と一言いえば、相手も兜をぬいで降参するかも知れないのですが、残念ながらそれが出来ない。

表向きにすれば、第一に屋敷の名も出る。

ひいては雷見舞の一件も露顕しないとも限らないので、大次郎はひどく困りました。

相手の方でも真逆に雷見舞などとは気がつきませんでしたろうが、たといどっちが悪いにせよ、侍が大小を取られたの、隠されたのと云って、表向きに騒ぎ立てるのは身の恥ですから、よもや自身番などへ持出しはしまいと多寡をくゝって、どこまでも平気であしらっている。

こんな奴等に出逢ってはかないません。

こうなったら仕方がないから、金でも遣って大小を出して貰うか、それとも相手の云うことを肯いて遊んでゆくか、二つに一つより外はないのですが、可哀そうに大次郎はあまり沢山の金を持っていない上に、こゝで祝儀を遣ったり、法外に高い勘定を取られたりしたので、紙入れにはもう幾らも残っていないのです。

ほかの品ならば、打っちゃった積りで諦めて帰りますが、武士の大小、それを捨てゝ丸腰では表へ出られません。

大次郎も困り果てゝ、嚇したり賺すかしたりして色々にたのみましたが、相手は飽までもシラを切っているのです。

年のわかい大次郎はだん/\に焦れ込んで来ました。

「では、どうしても返してくれないか」

「でも、無いものを無理じゃありませんか」

「無理でもいゝから返してくれ」

「まあ、ゆっくりしていらっしゃいよ。

そのうちには又どっかから出て来ないとも限りませんから」

「それ、みろ。おまえが隠したのじゃないか」

「だって、あなたがあんまり強情だからさ。

あなたがわたしの云うことを肯いてくれなければ、わたしの方でもあなたの云うことを肯きませんよ。

そこが、それ、魚心に水心とか云うんじゃありませんか」

「だから、また出直してくる。

きょうは堪忍してくれ。

もう七つを過ぎている。

おれは急いで行かなければならない」

「七つ過ぎには行かねばならぬ――へん、きまり文句ですね」

大次郎はいよ/\焦れて来ました。

「これ、どうしても返さないか」

「返しません。あなたが云うことを肯かなければ……」

云いかけて、女はきゃっと云って倒れました。

そこにあった徳利で眉間をぶち割られたのです。

大次郎は徳利を持ったまゝで突っ立ちました。

「さあ、どこに隠してある。案内しろ」

女の悲鳴をきいて、下から亭主や料理番や、ほかに三四人の男どもが駈けあがって来ました。

どうでこんな家うちですから、亭主はごろつきのような奴で、丁度仲間の木葉こっぱごろがあつまって奥で手なぐさみをしているところでしたから、すぐにどや/\と駈けつけて来たのです。

来てみると、この始末ですから承知しません。

大事の玉を疵物にされては、侍でもなんでも容赦は出来ない。

取っ捉まえて自身番へ突き出せと、腕まくりをして掴みかゝる。

それを突き倒して次の間へ飛び出すと、そこには夜具でも入れてあるらしい押入れがある。

もしやと思って明けて見ると、果して自分の大小が夜具のあいだに押込んでありました。
手早くひき摺り出して腰にさすと、又うしろから掴み付く奴がある。

なにしろ多勢に無勢ですし、こっちも少し逆上のぼせていますから、もうなんの考えもありません。

大次郎は掴みつく奴を力まかせに蹴放して、また寄って来ようとするところを抜撃ちに斬りました。

「わあ、人殺しだ」

騒ぎまわる奴等をつゞいて二三人斬り倒して、大次郎は二階からかけ降りました。

びっくりしている駕籠屋にむかって、大次郎は叱るように云いました。

「いそいで吉原へやれ」

駕籠屋も夢中でかつぎ出しました。

「実に飛んだことになったものですよ」と、三浦老人はため息をついた。

「大次郎という人はその足で吉原へ飛んで行って、諸越花魁に逢って、式かたのごとくに雷見舞の口上をのべて帰りました。
帰っただけならばいゝのですが、屋敷へ帰ってから切腹したそうです。
相手が相手ですから、あるいは殺し得で済んだかも知れなかったのですが、兎も角それだけの騒ぎを仕出来したので、世間の手前、屋敷でも捨てゝ置かれなかったのか。
それともお使に出た途中で、こんなことを仕出来しでかしては申訳がないというので、当人が自分から切腹したのか。
それとも表向きになっては雷見舞の秘密が露顕するというので、当人に因果をふくめて自滅させたのか。
そこらの事情はよく判りませんが、いずれにしても一人の侍がよし原へ雷見舞にやられて、結局痛い腹を切るようになったのは事実です。
料理屋の方でも二人は即死、ほかの怪我人は助かったそうです」

「まったく飛んだことになったものでした」と、わたしも溜息をついた。

「その後もその大名はよし原へ通っていたのですか」

「いや、それに懲りたとみえて、その後は一切足踏み無しで、諸越花魁も大事のお客をとり逃してしまったわけです」

云いながら老人は老女の顔を横目にみた。わたしも思わず彼女の顔をみた。

三人の眼が一度に出逢うと、老女はあわてゝ俯向いてしまった。

しばしの沈黙の後に、老人は庭をみながら云った。

「さっきの雷で梅雨もあけたと見えますね」

庭には明るい日が一面にかゞやいていた。

(了)

 

本当は聞きたくない!山の怖い話 その2

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